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当社ではスラウェシ島の様々なオリジナル旅行、ツアーお手配をご案内しております。日本発着のスラウェシ島への国際線航空券をはじめ、インドネシア国内線航空券、現地ツアー手配。北はマナドから南はマカッサル迄全スラウェシ地域をご案内致しております。 スラウェシ島及び周辺辺境地の戦没者慰霊巡拝もご案内が可能です。日本人スタッフを含む現地スタッフも万全の体制で、全力投球でお客様のご旅行をサポート致します。まだまだ新しい何かを発見出来るインドネシア・スラウェシ島を是非体感して下さい。 |
■【スラウェシ島・Sulawesi】 |
![]() 面積17万4600平方キロメートルは世界第11位で日本本州の75.6%、日本の全領土の46.2%に値する土地を有しインドネシアでは第4位の大きさである。 |
【その他スラウェシ島地区の主な町】 |
クンダリ・ゴロンタロ・タウナ・タナトラジャ・トリトリ・バウバウ・パル・パレパレ・パロポ・ブオル・ポソ・ポレワリ・マカッサール・マナド・マムジュ・メロングアネ・ルウック・ワンギワンギ |
スラウェシ島の過去手配行程はこちらをご参照下さい |
【スラウェシ島 インフォメーション 1】 |
■【概要】 その昔創世の時、神が人間に「それぞれの岬の方向に散りそれぞれの国を造れ」と命じ今の世になったという昔噺がある。スラウエシの活発な地殻変動がこの様な特徴ある島を形造っている。安定している隣のカリマンタン島とは極端な異なりがあり赤道が島の北を横切り、ランテマリオ(3455 m)、ラテイモジョンなど3千米級四峰を始め殆どが活火山を含む山岳地帯、東のトミニ湾は過去の大噴火で出来た湾、1983年湾内の小島ウナウナが爆発し消滅。 自然は複雑多様で深いトウテイ湖 広いポソ湖 雨季に大きく面積を変える浅いテンペ リンボト湖、年間雨量もランテパオで4000 mm 山を越えたパルでは500 mmと大きな差があり火山地帯には各所に温泉が吹出す一方、広大な熱帯多雨林、アルンアルン乾燥草原、石灰岩カルスト地帯、珊瑚礁、マングロープスワンプとまるで地質学の博物館の様相 |
■【地理】 形態は 蜘蛛又はK文字とそっくりで北から南へ伸び、北東・東・南東3つの半島が伸びる。スラウェシ島は西にカリマンタン島、北にフィリピン、南にフローレス島、東にマルク諸島に囲まれてる。3,000m級の山が幾つかある。 |
■【語源】 スラウェシの名は中部スラウェシ地区の南スラウェシ州・ルゥ ティムール県ソロウォコ市のマタノ湖周辺に存在する鉱山生産物の鉄鉱石交易から、島を意味するsulaの言葉と鉄を意味するmesiの言葉からの起源と考えられている。一方で14-15世紀頃に初めて来た外国人であるポルトガル人がスラウェシ島を全体的にセレベス(Celebes)の名を使用した。 |
■【大都市】 スラウェシ島大都市10傑(人口の多い順):1:マカッサル(南スラウェシ州) 2:マナド(北スラウェシ州) 3:ビトゥン(北スラウェシ州)4:パル(中部スラウェシ州) 5:クンダリ(南東スラウェシ州) 6:ゴロンタロ(ゴロンタロ州)7:パロポ(南スラウェシ州) 8:バウバウ(南東スラウェシ州) 9:パレパレ(南スラウェシ州) 10:コタモバグ(北スラウェシ州) |
■【文化】 ブギス族の文化で最も知られているのはKapal Pinisi(伝統的な帆船)。Kapal Pinisiは 昔の交通手段であり荷物船。風力を原動力として利用した帆船である。14世紀より存在が確認されており現在でもKapal Pinisiはその存在を世界に認められている。 現在、Kapal Pinisiは遠征用や豪華遊覧船として利用されているがスラウェシ社会では日々の運搬船としてこの船の利用がまだある。現在も南スラウェシ州ブルクンバ県にて船の制作現場を見る事が出来る。 トラジャ民族は山地・高知に居住する中国出身を祖先とする住民として知られ多岐にわたる文化を有し現在も継承されている。トラジャで最も有名文化がトラジャ伝統家屋「トンコナン」。この伝統家屋トンコナンはトラジャ族の精神シンボルであり様々な祭礼が催される。 |
【スラウェシ島 主な町、施設 一例】 |
【タンココ森林公園 Tangkoko Batuangus】 |
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【タナトラジャ Tana Toraja】 |
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【パオテレ港 Pelabuhan Paotere】 |
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【ロッテルダム要塞 Benteng Ujung Pandang】 |
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【マカッサール郊外 Pinggiran Makassar】 |
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【様々なスラウェシ島手配、お手伝い致しました 抜粋】 |
■ 【マナド】歴史探訪、視察ツアー手配 ■ 【タナトラジャ】魅惑の地タナトラジャ観光手配 ■ 【マカッサール】戦没者慰霊巡拝、施設視察ツアー手配、観光手配 ■ 【バンタエン】工場、施設視察手配 ■ ガルーダ航空、ライオン航空等、スラウェシ島地区国内線手配 |
【旅行会社様スラウェシ島ツアーのお手伝い致しておりますお気軽にご相談下さい】 |
■ スラウェシ島プランニングは自由自在。可能な限りユニットプランニング致します。 ■ ご要望地(スラウェシ島及びインドネシアの地方都市、郊外)への航空券をお手配致します。 ■ スラウェシ島各地ランドオンリー、各地上手配承ります。 ■ スラウェシ島特殊なお手配ご案内致します。 |
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【インドネシア各地域のページへ】 ◆スマトラ島 ◆ジャワ島 ◆カリマンタン島 ◆バリ島 ◆ロンボク島 ◆ヌサトゥンガラ諸島 ◆スラウェシ島 ◆マルク諸島 ◆ニューギニア島パプア |
【スラウェシ島 インフォメーション 2】 |
■【マカッサル・Kota Makassar】 旧名はウジュン・パンダン(Ujung Pandang)。面積は香川県より少し小さい175.77k㎡・スラウェシ島の南部に位置、南スラウェシ州の州都。ゴワ=タッロ(マカッサル)王国時代の17世紀前半から後半にかけては、交易中継港として大いに栄えた。 人口は宮崎県程の約140万人インドネシア7番目の多さ。東インドネシア地域の中心的な都市でもある。元々、都市の名前はマカッサルであるが、1971年にウジュン・パンダンに改名され、1999年に元の名前に戻された。 |
■【マナド・Manado】 世界中のダイバーたちの憧れの地。世界最大級のドロップ・オン、魚の群れの濃さ、バラエティーに富むポイント等で有名。シュノーケリングでも色鮮やかな熱帯魚と海面かで揺らめく光を見る事ができ海だけでなく陸の方もマナドの近郊には雄大な風景や珍しい動物などを楽しめるところが多い。 インドネシアでは「マナド人」という言葉を使う事がありこの周辺に住む多くの民族を総称して使う。「ミナハサ人」とすると範囲は狭まりマナドの町とその近郊に住む7民族を意味する。7民族を統合する必要のあった時代に出来た言葉で「ひとつ」という意味を持っている。 さまざまな民族の文化や言語についても興味深い。ミナハサ人はモンゴルに起源があるとの伝説があり日本人の起源地もモンゴルとの説があるので起源地が同じだった可能性がある。 優良な港があり香辛料が豊富に採れる事で早くからオランダの植民地になった。 その為、オランダ人や中国人など他民族との混血が多く目が大きく色白な美人が多い地としてインドネシアでは知られている。問題をみつけてはアジア人のように集団化し西洋人のようにガミガミ怒るということでも有名。 こちらが普通にしていると、微笑みをもって礼儀正しく接してくれる人が多い。現地ではManadoと表記しマナドと読むが、インドネシアではMenadoと表記する事が多く、読みはマナドとメナドが半々位になっている |
■【歴史】 13世紀、貴重な交易品及び鉄の鉱物資源がスラウェシの古い文化習慣を変化させた。これは、より大きな政治基礎を設立する個人の野心を可能にし、1400年代、南スラウェシ州マロス県チュンラナ市渓谷の西エリア、南海岸地区及びパレパレ近辺の東海岸地区に幾多の新たな農業王国が現れた。 スラウェシ島へ最初に訪れた欧州人は1525年マルクから金を探す為に送られたポルトガルの船(当時は諸島の国と信じられていた)。オランダが到着したのは1605年。そしてイギリスが続きマカッサルに工場を設立する。 1660年よりオランダは主に西海岸に権力を持つゴア王国に対して戦争を始める。ボネ王国支配者のArung Palakkaの支援を受け勝利する。1669年、Speelman提督は強引に支配者になりスルタンハサヌディンに貿易権を蘭印会社へ引渡すブンガヤ条約に調印させる。 オランダはウジュンパンダンに要塞を設立する一方で、Arung Palakkaはボネ王国と地域の支配者になる。政治と文化の発展は現状維持姿勢の為遅れている様に見える。1905年、全スラウェシ島は蘭領東印度のオランダ植民地の一部になる。(日本が大東亜戦争で上陸する迄)インドネシア改革時オランダのトルコ人大尉Westerlingが南スラウェシにて少なくとも4000名を殺害する。主権を引渡し後の1949年12月、スラウェシはインドネシア合衆国の一部になる。1950年、インドネシア共和国に合流支援となる。 インドネシア独立時、スラウェシは知事配下自治政府を形成し州としての位置を得、スラウェシ州は首都をマカッサルに置きサム・ラトゥランギを初代州知事として迎え州行政システムの形成は更なる開発のパイオニアになる。その当時のスラウェシは東インドネシア国に所在していたが、その後、東インドネシア国はインドネシア共和国連盟になる。インドネシア統一の共和国に合流し、州として統一されスラウェシ州の位置は1960年迄続く。 歴代スラウェシ州知事 Dr. Gerungan Saul Samuel Jacob Ratulangi (1945 - 1949)・Bernard Wilhelm Lapian (1949 - 1951)・Raden Sudiro (1951 - 1953)・Andi Burhanuddin (1953)・Lanto Daeng Pasewang (1953 - 1956)・Andi Pangerang Pettarani (1956 - 1960) 1960年より南・東南スラウェシと中部・北スラウェシ二つの行政区画に分けられた。1964年、中部・北スラウェシ行政が中部スラウェシと北スラウェシの二つ別れ行政の区画を形成された。南・南東スラウェシは南東スラウェシと南スラウェシも二つに分かれ行政区画に形成された。1999年、各4地区の行政区画の呼称を州へ変換。地方自治体の改革時代に入り2000年にゴロンタロ州、2004年に西スラウェシ州が形成された |
■【行政】 スラウェシでの行政は南スラウェシ・北スラウェシ・中部スラウェシ・ゴロンタロ・南東スイラウェシ・西スラウェシの6つの州に別けられた。最大の州は中部スラウェシ州で68,033平方キロの広さを持ち、海域は東側の半島、北側の半島の一部、トミニ湾のテグアン諸島、トロ湾内バンガイ諸島の島々を含む189,480平方キロを有する。内陸部の大部分は山が42.8%が海域500mの高さを超える。中部スラウェシ州最高峰はカトパサ山は2,835m |
■【ブギス族】 ブギス族はスラウェシ島で支配的な民族でスラウェシ島のどの地でもブギス族が活動している。ブギス族の大多数は商人でありスラウェシ島の市場は概ねブギス族によって掌握されている。ブギス族は宗教的であり自尊心と尊厳の高さをとても尊ぶ民族である。 |
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この度は弊社スラウェシ島地区ページへご来店頂きまして誠にありがとうございます。弊社では様々なオリジナルのスラウェシ島現地手配・お手伝いをさせて頂いております。きっとご希望に添えるプランをご提供出来ることをお約束致します。お気軽にメール・ファックス・お電話にてお問合せ下さい。 |
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