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マタラム王宮 取巻く人々orang lain

マタラム王宮 取巻く人々

マタラム王国を取巻く人々、ジャワ島、インドネシア

マタラム王国を取巻く人々 Orang Lain

Pangeran Cakraningrat IV(1718-1746)
マタラム王国取巻く人々、ジャワ島、インドネシアマドゥラ島西部を収めていた首領。妻はパクブワナⅡの妹なので、パクブワナⅡの義理の弟。パクブワナⅡは信用しているが前身のマタラム王国の政治が大っ嫌い。それ故かVOCに依存が強い、しかし最後はVOCにしてやられる。(因みに写真はチャクラニングラットファミリーの物。)VOCの保護下にいたい為、前任者同様にマタラム王宮を拒絶する。1726年憎きアマンクラットⅣが死去し息子のパクブワナⅡが次の政権に選ばれるとマタラムとチャクラニグラットの関係が好転する。チャクラニンカットはパクブワナの妹と結婚(なのでパクブワナⅡは義理兄)。

1730年台終盤、東ジャワの権力を得る(ブランバンガン地でバリ人の脅威が高まる)。1741.7 マタラム軍がカルタスラのVOCを攻撃しJohannas van Elsen司令官確保し殺害、そしてVOC要塞は取り壊された。この事件はバタビアで起きた華僑虐殺事件と続いているのだ。パクブワナはパシシール地区のVOC権力に挑む華僑反乱軍への援助を切る。唯一期待されたVOC軍部権力チャクラニングラットⅣはVOCのパシシールの政権地を奪い返す事を請け負い奪い返す。

ジャワ反乱軍はラデン マス ガレンティ(別称スナン クニン、 アマンクラットⅢの孫)を新しいススフナンとして擁立。1742年6月、反乱軍はカルタスラを破り略奪する。パクブワナとHohendorffはポノロゴ地へ敗走。パクブワナはチャクラニングラットへ助けを求める。11月、チャクラニングラット軍はカルタスラを奪い戻し、パクブワナへ王宮を返還する事をVOCへ要望。スラバヤと東ジャワに於いて未だ権力と影響力があるスラパティ系譜(スラパティ:1660-1706ジャワでの植民地主義とVOCに対し伝説的闘争を繰り広げインドネシアの国民的英雄に1975.11.3指定)の指導者と同盟する。

東ジャワからVOCへの関税及び米の貢納品を送るのを止める。VOCは交渉を試るも1744.7拒絶された。1745.2 VOCはチャクラニングラットは政府への謀反行為と表明。チャクラニングラットは武器を手に取り東マドゥラを攻撃する。VOC軍は当初手こずるが、流れを戻しチャクラニングラットはバンジャルマシンへ敗走し頼ったバンジャルマシンのスルタンが裏切りVOCへ降伏。

チャクラニングラットはバタビアへ移送後、南アフリカへ流刑1746年。VOCは息子を断ち切る、チャクラニングラットⅤとしての後継者にする為に、チャクラニングラットの敗北でジャワの介入によりマドゥラは終る。
アルヤ マンクネガラ Arya Mangkunegra
アルヤ マンクネガラ、ジャワ島、インドネシアアマンクラットⅣの長男(母は側室MAS Ayu Koroh)で、弟がパクブワナⅡ(スラカルタ王)とハメンクブアナⅠ(ジョグジャカルタ王)で、マンクヌガラⅠ(マンクヌガラン王)の父親。「マンクヌガラ」の称号は父親のアマンクラットⅣの兄にあたる長男(叔父)が使い始めたもので結構名門。当初はアマンカットⅣの後継(=マタラム継承)と目されていたが、後の継承者パクブワナⅡ(母は王妃)を推すグループにそのポジション奪われると同時に王宮では閑職にされてしまう。挙句の果てには政敵に嵌められ弟のパクブワナⅡとVOCによってスリランカへ流刑にされてしまう。この時、息子のマンクヌガラⅠ(ラデン マス サイド)は2歳。
Raden Mas Garenti(1730-??)
ラデン マス ガレンティ、ジャワ、インドネシアラデン・マス ガレンティ(黄色人種の指導者の意味から"スナン クニン"Sunin Keningの愛称を持つ)マタラム王国アマンクラットⅢ(アマンクラットⅣの父親)の孫。1742年、12歳の時ススフナン パクブワナⅡの権力に挑む反乱軍(この戦にはラデン マス サイドも合流)によるマタラム王として擁立され政治利用され、そして捕まってしまう可哀想な少年。
パクブワナⅢ PakubuwanaⅢ(1732-1788.9.26)
パクブワナⅢ、ジャワ島、インドネシア元の名はRaden Mas Suryadiha.父親はPakubuwanaⅡ.母親はPangeran Purbaya Lamonganの娘でPakubuwanaⅠの孫でもある。そしてパクブワナⅣの父親。父親のパクブワナⅡも継承時15歳でパクブワナⅢも17歳と、はっきり言ってマタラム継承本家なのにとても脆弱世襲。VOCや周りの家老達に政治利用されたのは言うまでもない。実質VOCの操り人形。パクブワナⅢは1749.12.15に大病の父親からスラカルタ王位を継承。この継承にはVOC介入指導(父親は、その後12.20に死去)。1746年マンクブミはマスサイドと反乱し第三次継承戦争勃発。1749.12.12反乱軍はマンクブミをマタラム継承の新王と表明する。

政権を得るジョグジャカルタ反乱軍は増々強くなり何度も王宮を攻撃される。VOC保護下のぬるま湯パクブワナⅢに追払う余裕がない。1752突如マンクブミとマスサイドに分裂が起こる。1754VOCはマンクブミとの和平交渉を提供。1755.2.13ギヤンティ条約を合意。この条約はマンクブミをパクブワナⅢの支配地を半分認める権力の認証。1756マンクブミはハメンクブワナⅠに称号変更しジョグジャカルタの名称で新たな王国を作る。ハメンクブワナⅠはクスルタン ヨグヤカルタとし、対してパクブワナⅢはカスナナン スラカルタとした。

ギヤンティ条約によりマスサイドはVOC・パクブワナⅢ・ハメンクブワナⅠの共通の敵となる。1756圧迫されたマスサイドはVOCと交渉準備。1757.3サラティガ条約でマスサイドはVOC・スラカルタ・ジョグジャカルタへ忠誠を表明。以来マンクヌガラⅠ支配地をマンクヌガランとし、パクブワナⅢからスラカルタ領の一角を与えられた。小さいながらも反乱がまだ起こる。この反乱はPangeran Singosari(パクブワナⅢの叔父)と東ジャワによるもの。
Pangeran Singosari は以前、マンクブミとマスサイド軍に合流していた当時、Pangeran Singosariマランのウントゥン スロパティ系の支援で反乱軍を一定の継続していた。

提示された和平オファーをパクブワナⅢとハメンクブワナⅠは拒絶。1767VOC軍は東ジャワを攻撃し、1768Pangeran Singosariを捕まえる。下された審判は流刑だが拘束地のスラバヤで死去。1771ウントゥン スロパティ系を捕まえ、その系譜政務が絶える。

パクブワナⅢはVOCへ屈する王となる。VOCの毎回の決議をいつも従順に受入れる。オランダに対して依存しているからだ。パクブワナⅢは政治力が弱い為、王宮は常に緊迫を引起している。又政務を乱す奴も現れ死ぬ迄この緊迫感が続いたという。
ハメンクブアナⅡHamengkubuwana II(1750.3.7-1828.1.3)
ハメンクブアナⅡ、ジャワ島、インドネシアハメンクブアナⅠの息子でジョグジャカルタ王宮を継承。政務1792-1810.1811-1812.1826-1828。息子Ⅲ、孫Ⅳが死去し幾度と王位へ就く。父親のハメンクブワナⅠがなかなか破天荒な生き方をしたので、その見返りが来てしまったのか? 結構悲惨な王である。本人は長生きするものの64歳の時に息子のⅢが死去(享年44)、73歳の時に孫のⅣが死去(享年19)、この間幾度と王位へ就く、又、曾孫Ⅴが王位に就いた時は3歳だったので流石にハメンクブワナⅡが死ぬ迄王位を務める。因みに曾孫のⅤも35歳と短命であった。
Sri Sultan Hamengkubuwana III (1769.2.20-1814.11.3)
ハメンクブアⅡの息子でジョグジャカルタ王宮3代目。1810-1811と1812-1814の2回政務に就く。王宮の支配地をイギリスRafflesの支援を受けているPangeran Notokusuma(パクアラムⅠ)へ分ける
Sri Sultan Hamengkubuwana IV (1804.4.3-1823.12.6)
ハメンクブアナⅢの息子でジョグジャカルタ王宮4代目。1814-1822間(10-19歳)政務に就く、パクアラムⅠが後見人として政務を補助。旅行中に突然死去、毒殺の噂がある。
Sri Sultan Hamengkubuwana V(1820.1.24-1855.6.5)
ハメンクブアナⅣの息子でジョグジャカルタ王宮5代目。1823.12.19-1826.8.17(3-6歳)と1828.1.17-1855.6.5(8歳~没)の2回政務に就く。
マンクネガラⅡ MangunegaraⅡ(17??-1835)
マンクネガラⅡ、ジャワ島、インドネシア幼名はRaden Mas Sulomo.父親が早く亡くなった為、祖父のマンクヌガラⅠより家督継承。母方の祖父はパクブワナⅢ。政務期間は1796-1835の40年。次のⅢ世はマンクネガラⅢの孫が継承する。この当時どうやらマンクヌガラ家では子への継承に縁がなく隔世世襲となる。
Adriaan Valckenier(1695.6.6-1751.6.20)
Adriaan Valckenier ジャワ島、インドネシア東印度会社(VOC:Vernigde Oostindische Cojmpagnie)の25代総督。1737-1741年間政務を収める。バタビア(現ジャカルタ)で勃発したGeger Pacinan(中国人虐殺事件)を生み出した張本人。責任を取り辞任、その後捕まり南アフリカへ送られる。後に再びバタビアへ戻り。死去。享年56歳

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【主な登場人物】

パクブワナ2世 PakubuwanaⅡ
パクブワナ2世、初代スラカルタ王、ジャワ島、インドネシアカスナナン カルタスラ王国アマンクラットⅣの子供で、スラカルタに新たな王宮を建設した王。父親の崩御により僅か15歳でカスナナン カルタスラ王を継承した為、VOCや周りの大人達に政治利用される。【スラカルタ王宮ページ】 【王宮WEB】
ハメンクブワナⅠ HamengkubuwanaⅠ
ハメンクブワナ1世、初代ジョグジャカルタ王、ジャワ島、インドネシア幼名をラデン マス スジャナ。成人しての称号をパンゲラン マンクブミ カルタスラ王室アマンクラットⅣ(マタラム王国)と側室マス アユ テジャワティとの息子でジョグジャカルタ王宮を設立した初代王。【ジョグジャカルタ王宮ページ】 【王宮WEB】
マンクヌガラⅠMangkunegaraⅠ
マンクヌガラ1世、初代マンクヌガラアン王、ジャワ島、インドネシア分裂時代はラデン マス サイド Raden Mas Saidの名前で活躍。パクブワナⅡとマンクブミ(ハメンクブワンⅠ)の甥、祖父がカスナナン カルタスラ王アマンクラットⅣ。第二婦人がマンクブミの娘なのでハメンクブワンⅠの婿でもある。【マンクヌガラアン王宮ページ】 【王宮WEB】
パクアラム Paku Alam
パクアラム1世、ジャワ、インドネシア襲名前はBendara Pangeran Harya Natakusuma.生まれは1760とも。ハメンクブワナⅠと側室Raden Ayu Srenggarの子。子沢山のハメンクブワナⅠが可愛がった一人とされている。[因みに写真はパクアラムⅠの孫で1857年より継承するパクアラム3世]【パクアラマン王宮ページ】 【王宮WEB】
取巻く人々
マタラム王国取巻く人々、ジャワ島、インドネシア王室の内外には敵味方がわんさといた当時のマタラム王国、様々な人々の助けもあるが、大概は互いに政治利用するものだった。【取巻く人々のページ】

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