モロタイ島

インフォメーション

当社ではモロタイ島、北マルク州、Morotai、現地に於ける、航空券・ホテル手配・車両チャーターを含んだ地上手配・現地ツアーから視察訪問、表敬訪問、慰霊巡拝、歴史探索等々、あらゆるオリジナル手配を手掛けております。現地スタッフも万全の体制で、そして全力投球でお客様の車両チャーターを含んだ地上手配、ご旅行をサポート致します。まだまだ新しい何かを発見出来るモロタイ島を是非どうぞ。

【モロタイ島 Pulau Morrotai】
15-16世紀、モロタイはテルナテ王国の権力支配下にあった。16世紀中頃、ポルトガルのキリスト拠点地となる。1571年、気分を害したテルナテ及びハルマヘラ王国はその教布教活動を防止に努め、17世紀にポルトガルはその地を逃げる様に離れる。

テルナテはその権力を利用してモロタイの政務を移す。住民たちはハルマヘラ西海岸のドディンガへ移った。1627-1628年テルナテ国王ハムザはキリスト教住民をより簡単にコントロール出来るようマレーシア、テルナテへ移させた。

モロタイ島の大部分が木材及び樹脂生産で東インドネシアでの商業ルートでありその他に金や鉄鉱石も豊富である。「Morotai」の由来は地元ではモロ人の居住地の意味と言われている。モロタイ社会は集団で生活する傾向があるが、互いに異なる信念を持つ、それが一つの特徴でもある。現在、住民の系譜は北ハルマヘラ島のトベロ族・ガレラ族が主。

行政区画 北マルク州 モロタイ県
中核都市 ダルバ Daruba
空港 モロタイ空港 Bandar Udara Leo Wattimena, Morotai
モロタイ空港乗入れ航空会社 JT:ライオン航空
モロタイ空港を結ぶ他空港 ◆マルク地区◆ [ テルナテ JT]
モロタイ空港から主な地域への距離 約 ダルバ:4km ダルバ公園:8km アイルカチャ:2km
web site http://www.pulaumorotaikab.go.id/ [モロタイ県]
https://malutprov.go.id/ [北マルク州]
時差 日本と同じ
面積 北マルク州 31,982k㎡(岩手県の2倍くらい)
面積 モロタイ県 2,476k㎡(佐賀県よりやや広い)
人口 北マルク州 120.9万人(岩手県よりやや少ない)
人口 モロタイ県 6.4万人(石川県加賀市くらい)
宗教 モロタイ イスラム58.49%・プロテスタント41.21%・カトリック0.11%・ヒンドゥー0.01%
町のイメージ 外部の動画サイトによる町のイメージ

【モロタイ 観光地、史跡、郷土料理、著名人】

【ダルバ公園 Taman Kota Daruba】

地元でも日没景観が人気のダルバ公園。海岸沿いには多くの軽食(ピサンゴレン・アイルグラカ・焼き魚等)行商屋台が軒を連ねる。この公園は夜が更ける程人々が訪れ賑やかになる。

【アイル カチャ Air Kaca】

アイルカチャは大東亜戦争当時、アメリカ合衆国軍にとって重要不可欠の原泉であった。この泉では時折ダグラスマッカーサーも沐浴に使ったと言われている。モロタイ島の人々は神秘的な意味を持っているとしている。

【中村滝 Air Terjun Nakamura】

この滝はデヘギラ村の森の中に位置している。Nakamuraの由来は日本陸軍の中村輝夫氏(戦後から29年間モロタイの森の奥で一人で戦っていた)が由来。中村氏が森に潜伏していた頃、生活水をこの滝から得ていた。景観が人気の滝だがインフラ整備が整っていないのでアクセスが不便 

【ビア リチャリチャw Bia Rica-rica】

リチャリチャは元々マナドの代表料理の一つである。魚やエビなどのトマトソース・ピリ辛の煮物。モロタイを含む北マルク諸島地域は割とマナドの料理文化に影響を受けている。

【メルキー グスラウ Melky Goeslaw】

メルキー グスラウ(1947-2006)モロタイ出身。インドネシアの代表的な国民的歌手。芸術部門で功績を残し、国内外で幾多の賞を獲得。持ち歌の中では”Hiroshima dan Nagasaki”と、日本を想う楽曲もある。ダイアナ ナスティオン(1958-2013)とのデュオでの”Bila Cengkeh Berbunga”が爆発的にヒット。1977年、ダイアナと共に参加した国内フェスティバルに優勝し、1995年、日本で行われた歌謡祭のポップ部門にて川上賞を受賞。しかしメルキーは癌、肺病、糖尿病、心臓病の合併症によりジャカルタで志半ばで世を去る。メルキーの娘(Melly Goeslaw)が跡を継ぎ歌手で活躍中。[動画サイトの様子]

【日本とモロタイ島 Jepang dan Morotai】

モロタイ島は大東亜戦争時、日本軍にとって重要拠点地域の一つであった。大東亜戦争時は日本軍の飛行場を建設し守備隊を強化するもアメリカ軍に奪われフィリピンや東ボルネオへの攻撃基地使用された。日本人戦没者は1,712名[動画サイトの様子]

関連記事