インフォメーション
当社ではビアク島、パプア州、Biak、現地に於ける、航空券・ホテル手配・車両チャーターを含んだ地上手配・現地ツアーから視察訪問、表敬訪問、慰霊巡拝、歴史探索等々、あらゆるオリジナル手配を手掛けております。現地スタッフも万全の体制で、そして全力投球でお客様の車両チャーターを含んだ地上手配、ご旅行をサポート致します。まだまだ新しい何かを発見出来るビアク島を是非どうぞ。
詳細は「ビアク島慰霊巡拝」ページをご参照下しさい。
行政区画 | パプア州 ビアク |
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中核都市 | ビアク Biak |
空港 | ビアク空港 Bandar Udara Internasional Frans Kaisiepo, Biak |
ビアク空港乗入れ航空会社 | GA:ガルーダインドネシア航空 SJ:スリウィジャヤ航空 JT:ライオン航空 |
ビアク空港を結ぶ他空港 |
◆ジャワ地区◆ ◆パプア地区◆ [ジャヤプラ GA SJ] |
ビアク空港から主な地域への距離 約 | ビアク市街:5km |
web site | http://www.biakkab.go.id/ [ビアク島] https://www.papua.go.id/ [パプア州] |
時差 | 日本と同じ |
面積 パプア州 | 316,553k㎡(北海道の4倍くらい) |
面積 ビアク県 | 2,602k㎡(佐賀県ょりやや広い) |
人口 パプア州 | 326.5万人(静岡県の1.1倍くらい) |
人口 ビアク県 | 14.4万人(栃木県足利市くらい) |
宗教 ビアク島 | プロテスタント76.17%・イスラム19.27%・カトリック4.19%・ヒンドゥー0.2%・仏教0.17% |
町のイメージ | 外部の動画サイトによる町のイメージ |
【ビアク島 観光地、史跡、郷土料理、著名人】
【野鳥・蘭公園 Taman Burung dan Taman Anggrek】
ビアク野鳥・蘭公園。1984年に開園。観光施設であると同時に調査・研究の保護地区でもある。この観光施設は極楽鳥・黒鸚鵡・ヒクイドリ・インコ等33種、200羽以上の野鳥がいる。欄は60種程の種類があり、1500を超えるパプアの野草・植物がある。営業時間は07:00-18:00
【ボスニック海岸 Pantai Bosnic】
日本軍はこのビーチに上陸。日本軍はビアク島を含む豪北方面(インドネシア東部)を絶対国防圏の一角に指定とした。ビアク島の大悲劇はここから始まった。今ではすっかりビアク島屈指の週末の家族への憩いの場となっており海水浴場だ。日本で言う所の「海の家」の様な東屋がいくつもある。[動画サイトの様子]
【ビアク魚市場 Pasar Ikan Biak】
pasar ikan(魚市場)としているが、雑貨や洋服を売っているコーナーもある。近隣にスーパーマーケットがあるものの、地元消費者にはこちらの市場が気に入りの様だ。又、市場の正面はベモ乗場となっており、その斜め前はオジェッの駐車場になっているので使い勝手の利便でオジェッを利用すう人が大半。
【ビアク水上集落】
ビアク郊外にある水上集落。下の海部分には網の囲いがあり「生簀」として活用。家を支える柱や、渡しに使う板が結構痛んでいたので細心の注意が必要。訪れた時にこの集落に住んでいるご婦人が板が割れて落下した。住人でさえ落ちてしまう集落、訪れる時は充分にご注意あれ。
【フランス カイシエポ Frans Kaisiepo】
フランス カイシエポ(1921-1979)は1946年南スラウェシのマリオで行われたマリオ会議(国家確立の会議)のパプア代表。「イリアン」の名称を提案。その他、パプア州知事を9年勤める。その後、1979年ジャヤプラで死去。氏の栄誉を讃え、インドネシア国民的英雄になる。現在のビアク空港にフランス カイシエポの名が残っている。
【ビアク島小学校へ机・椅子寄贈 2018】
昨年に引き続き本年2018年も大館南ロータリークラブ代表の皆様が、慰霊碑巡拝と共に、地元小学校へ机、椅子等を寄贈に際したお手配を行いました。今年はインターネットで大館市内の定例会と寄贈式を中継で結び、その様を見守る事が出来ました。この模様が新聞に掲載されました
【ビアク島小学校へ机・椅子寄贈 2017】
大館南ロータリークラブ代表の方々(代表:日本遺族会常務理事・秋田県遺族連合会会長 仲沢誠也様)が、慰霊碑巡拝と共に、地元小学校へ机、椅子等を寄贈に際したお手配を行いました。子供達も学校、村も大変喜ばれたそうです。とても心温まる手配でした。この模様が新聞に掲載されました。
【ビアク島大東亜戦争 Perang Asia Timur Raya Biak】
日本軍が絶対国防圏の最前線と位置づけたビアク島。陸海軍約12000の兵力を配して飛行場群の整備を進めた。海軍の敗退により食糧弾薬の補給は途絶え、米軍は立て篭もる洞窟にガソリン入りのドラム缶を投げ込み、火炎放射器で焼いた。守備隊はその後もビアク島の中南部で尚抵抗をつづけ、敵地に潜入して食糧を奪ったりして持久をはかった。後に「北のアッツ島、南のビアク島」と言われる程の悲惨さであった。