当社ではカリマンタン島の様々なオリジナル旅行・ツアーお手配をご案内しております。日本発着のカリマンタン島への国際線航空券をはじめ、インドネシア国内線航空券、車両チャーターを含めた現地ツアー手配。北はヌヌカンからから南はバンジャルマシン迄全カリマンタン地域旅行、ツアーをご案内致しております。
カリマンタン島内辺境地の戦没者慰霊巡拝もご案内が可能です。日本人スタッフを含む現地スタッフも万全の体制で、全力投球でお客様の車両チャーターを含めたご旅行をサポート致します。まだまだ新しい何かを発見出来るインドネシア・カリマンタン島を是非体感して下さい。
植民地時代には「ボルネオ」と呼ばれたカリマンタン島は世界第3位(743.330km²日本国土の約1.96倍)の広さを有する島。カリマンタン島は3つの国が所在しインドネシアが73%、マレーシアが26%、ブルネイ王国が1%の所有構想。カリマンタン島は「千の川を持つ島」の愛称としても知られる。その昔、ブルネイスルタン王国の名前を起源としたボルネオはイギリスとオランダの植民地支配によりこの島への総合的な名称に使われた。一方でカリマンタン島の名称はカリマンタン島東部住民によって使われていた呼称。カリマンタン島北地域はマレーシア及びブルネイ王国の領地。カリマンタン島は他の名称・呼称では「Kalamantan」「Calemantan」「Kalemantan」「Kelamantan」「Kilamantan」「Klamantan」「Klemantan」「K'lemantan」「Quallamontan」とも表記される。
面積 カリマンタン島 | 743,330k㎡(日本総面積の1.97倍 世界3位の島 インドネシア領土は73%) |
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人口 カリマンタン島 | 1,637万人(東京都の1.18倍) |
面積 | 146,800k㎡(北海道の1.87倍くらい) |
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人口 | 500万人(福岡県くらい) |
州都 | ポンティアナック |
宗教 | イスラム55.68%・カトリック23.5%・プロテスタント13.62%・仏教6.73%・儒教0.26%・ヒンドゥー0.21% |
民族 | ダヤック43.1%・マレー25.56%・ジャワ8.66%・中国8.17%・マドゥラ6.27%・ブギス3.13%・スンダ1.13%・バタック0.6%・ダヤ0.52%・バンジャール0.33%・他1.33% |
言語 | インドネシア・ダヤック・ブギス・ジャワ・マレー・ハッカ・ティオチウ・中国 |
都市 | クタパン・シンタン・ポンティアナック・プトゥシバウ |
面積 | 153,564k㎡(岩手県よりやや広い) |
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人口 | 271万人(大阪府大阪市くらい) |
州都 | パランカラヤ |
宗教 | イスラム70.29%・プロテスタント16.4%・ヒンドゥー8.09%・カトリック4.56%・仏教0.63%・儒教0.03% |
民族 | ダヤック46.62%・ジャワ21.67%・バンジャール21.03%・マレー1.93%・スンダ1.29%・ブギス0.77%・バタック0.56%・フローレス0.38%・バリ0.33%・他1.44% |
言語 | インドネシア・ダヤック・バンジャール・ブギス・ジャワ・マドゥラ・マレー |
都市 | サンピット・パランカラヤ・パンカランブン |
面積 | 37,530k㎡(岩手県の2.45倍くらい) |
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人口 | 424万人(大阪府の半分くらい) |
州都 | バンジャルマシン |
宗教 | イスラム96.23%・ヒンドゥー1.61%・プロテスタント1.26%・カトリック0.57%・仏教0.33% |
民族 | バンジャール74.34%・ジャワ14.51%・ブギス2.81%・ダヤック2.23%・マドゥラ1.47%・スンダ0.68%・中国0.36%・バタック0.34%・バリ0.33% |
言語 | インドネシア・バンジャール・ブギス・ダヤック・ワルキン・バランガン・トゥンバン・ジャワ・マドゥラ・マンダール・バジャウランパ |
都市 | コタバル・バンジャルマシン |
面積 | 127.346k㎡(北海道の1.62倍くらい) |
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人口 | 357.5万人(静岡県くらい) |
州都 | サマリンダ |
宗教 | イスラム85.57%・プロテスタント9.41%・カトリック4.17%・仏教0.49%・ヒンドゥー0.28%・他 |
民族 | ダヤック・バンジャール・クタイ・パスール・ジャワ・ブギス・トラジャ・スンダ・マドゥラ・ブトン・他 |
言語 | インドネシア・ムライック・ダヤック・クレボブギス |
都市 | サマリンダ・バリクパパン・ブラウ・メラック |
面積 | 75,467k㎡(北海道よりやや狭い) |
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人口 | 69.1万人(静岡県静岡市くらい) |
州都 | タンジュンセロール |
宗教 | イスラム59.54%・プロテスタント31.38%・カトリック7.6%・仏教1.26%・ヒンドゥー0.06%・儒教0.001% |
民族 | ダヤック・ティドゥン・ブルンガン・スルック・バンジャール・ブギス・ジャワ |
言語 | インドネシア・ダヤック・バンジャール・ブルンガン・ジャワ・マレー・タウスン・ティドゥン |
都市 | タラカン・タンジュンセロール・ヌヌカン・マリナウ |
「東洋のベニス」と呼ばれる水の都バンジャルマシン。かつてはバンジャル人達の王国があった古い歴史を持つ町。町としての設立日は1526年9月24日だが、その歴史は古くバンジャルマシンの古い名前はダヤックブキットの方言でマレーのポートを意味する。バンジャルマシンは、オランダ植民地時代を通してボルネオ島の首都であった。
「ポンティアナック事件」(マンドールの悲劇)は日本軍がポンティアナック占領中、当時の映画館支配人がスパイ容疑で逮捕された事が切っ掛けと戦況の悪化もあり、反日組織を粉砕しようとしたものと言われる。マンドールの慰霊祭には2万を超える人々が犠牲になったと記載されている。日本軍の関係資料は全て焼却処分され、日本軍の当事者は戦犯により処刑されており、その真相は謎のまま。写真は慰霊祭の様子。
カリマンタン島東岸にある東カリマンタン州の港湾都市。バリクパパンは資源が豊富な事で知られる。木材や鉱物資源、石油製品を輸出する。石油が発見される前はブギス(Bugis)族の漁村だった。バリクパパン(バリクが背後、パパンが板の意味)の語源は地元の王が自分の新生児の娘を敵から護る為、海の中を投げ入れたと言う伝説から生まれた。赤ん坊はいくつかの板の下に繋がれていて漁師に発見された。バリクパパンは石油生産の中心地として生き返った。国際的石油会社の支店設立に続きプルタミナもこの年に地域本部を開く。インドネシアの他所からやってきた何百人もの労働者や、エンジニアといった手に職を持った海外勤務者がこのバリクパパンに集まった。
タラカンはバリクパパンに次ぐ東カリマンタン州の第二の玄関にまで成長。そしてインドネシア・マレーシア・フィリピンの交易の窓口。タラカンは大東亜戦争の歴史観光地であり、自然のマングローブの森と保護区の森、ビーチリゾート開発、独自文化観光とタラカンは豊富な観光地がある。大東亜戦争時には、日本軍の占領後、バリクパパンで生産された石油製品の中継集積センターが建設され、日本本土や日本軍の各前線拠点への補給拠点となった。日本軍守備隊と奪還を目指す連合軍との間で戦闘が行われた激戦の地タラカン。
全体的に山がちの地形を有し最高峰は北東部に位置するキナバル山、標高は4101mである。鉱物資源が豊富で、石油、石炭、ダイヤモンド、金、銅、錫、鉄、マンガン、アンチモン、ボーキサイト等を産出。
気候は熱帯気候で降雨量は年平均4000mmで乾季はなく熱帯雨林が発達しており北部にはサイ、ゾウが生息し、その他虎、オランウータン、テナガザル等の大型哺乳類や、ワニ、ニシキヘビなどの爬虫類が生息している。奥地に先住民族のダヤク族が住んでおり沿岸部にはマレー系、人口集積部に中国系の住民もいる。
カリマンタン島最長距離の川は西カリマンタンのカプアス川1143km、他に中部カリマンタンのバリト川880km、東カリマンタンのマハカム川980kmと、長距離の川がある事でも知られている。
タンジュン プティン国立公園は中央カリマンタン州半島南西部に位置。タンジュン プティンの初まりは1937年8月18日蘭領東印度政府による制定の自然保護区・鳥獣保護区。1996年10月25日、林業大臣により国立公園に指定され林業省の森林保護や自然保護総局管理から。
タンジュンプティン国立公園は当初は蘭印東印度植民地時代政府によって205.00ヘクタール部分を「サンピット鳥獣保護区」とされていた。1941年には「サンピット自然保護区」と「コタワリンギン自然保護区」となる。この自然保護区は主にオランウータンやテングザルを保護対象とした。
サンピット鳥獣保護区は1978年4月8日農業大臣が再設定の「タンジュンプティン鳥獣保護区」へと名称変更、同年11月13日スリンバン川とスギントゥン川間迄保護区を拡張する。前年の1977年、タンジュンプティン鳥獣保護区はユネスコが定めるインドネシア生物圏保護区にリストに。1982年10月14日タンジュンプティンは後に農業大臣決定で国立公園候補として表明され保護活動の為、1984年12月11日その広さを300.040に制定し1996年10月25日林業大臣が国立公園に指定した。
カリマンタン島の名称起源は明確ではなくカリマンタン島北部地区マレーシア領サラワックでサゴ椰子を消費する住民は「Kelamantan」と呼称。スコットランドの植民地管理官で外交官のCrowfurd曰く、「カリマンタンはマンゴーの種類の名前」としているが、あまり知られておらずお伽噺的な扱い。
現在ではカリマンタン島西部クタパン地域の村落に多く「Klemantan」表記が存在する他に、カリマンタン島の語源は6つの地元種族グループ Iban (Dayak Laut), Kayan, Kenyah, Klemantan (Dayak Darat), Murut, dan Punanから成り立つとの説もある。
植民地管理者で動物学者・動物行動学者のCharles Hoseの文献Natural Man(ボルネオの記録1926)での説明ではKlemantanはマレー族によって使われた新しい名前としているがインドネシアの言語学者で歴史家のSlamet Muljanaはカリマンタンの言葉はオリジナルのマレーの言葉にない外来語(マレーの出自はインド)としている。
他の意見ではKalimantan又はKlemantanはサンスクリット語の語源、カリマンタン島の空気が暑い意味からのKalamanthanとの意見もある。「kala」と「manthana」の最期の母音aは表現しない当時の風習からKalimanthanaはKalmantanと変化し、後にKlemantan,Quallamontanと呼称され最終的にKalimantanになったと伝えられている。当時カリマンタン島東の住民はK'lemantanと呼称していた。ジャワ語から考察した場合のカリマンタンの名称は「ダイヤモンドの川」の意味として捉えられる。
カリマンタン島は東南アジアの中央部に位置しており、その為文化、政治は周辺より多くの影響を受ける。クタイ王国遺跡ユパ石碑発見により西暦400年頃カリマンタン島の歴史背景が読み取れ他の島と比較して文明の進歩発展は比較的進まない。何故なら住民が少なく地理的な制約があった。
14世紀にはイタリアの旅行家・修道士のOdorico da Pordenoneがカリマンタン島へ訪れる。1362年頃ガジャマダ傘下のマジャパヒトは権力拡大を行う為カリマンタン島へ向いカプアス(Kapuas)からカンティンガン(Kantingan)、サンピット(Sampit)、ウンガ(Ungga)、コタワリンギ(Kota Waringin)、サンバス(Sambas)、ラワイ(Lawai)、カダンダンガン(Kadandangan)、ランダ(Landa)、サマダン(Samadang)、ティレム(Tirem)、セドゥ(Sedu)、バルネ(Barune)、カルカ(Kalka)、サルドゥン(Saludung)、ソロット(Solot)、パシル(Pasir)、バリト(Barito)、サワク(Sawaku)、タバロン(Tabalong)、タンジュンクタイ(Tanjung Kutei)、マラノ(Malano)をカリマンタン島で最重要地と定めた。
カリマンタン島はブルネイ・スカダナ(タンジュンプラ)・バンジャルマシンの3地域に分割された。1857年バンジャル王国Tamjidillah王からバンジャルマシンのオランダ行政地への書簡では、この当時既にボルネオではなく「カリマンタン島」呼称記載。カリマンタン島は蘭領東印度時代ではボルネオとして知られてるが住民間ではボルネオの名よりカリマンタン島の名称が浸透していた事を示したとされる。これは蘭領東印度時代行政の中で使われた事に影響があるとされ1900年以前、カリマンタン島は幾つかの自治体国家が自立していた。その後、タヤン(Tayan)・ムリアウ(Meliau)国が形成、1909年ピノー(Pinoh)、1916年スミタウ(Semitau)
2年後、行政長はボルネオをバンジャルマシンとポンティアナックの2つに分け、1938年蘭領東印度は3つの州を設置するスマトラ島のメダン・ボルネオのバンジャルマシン・東地区をマカッサルに。翌1939年には西カリマンタン島に4つの主な地域と13の地区を設置。
1942年2月13日第16軍坂口静夫少将がバンジャルマシンを占領、その後1945年8月17日インドネシアは独立宣言する。1945年11月9日カリマンタン住民は内陸部でゲリラと合法の行政に対して反乱し、オランダが計画しているボルネオ国建設を頓挫させる。日本からカリマンタンを奪還した後、NICA (日本降伏後、蘭領東印度の民間行政、民政と蘭領東印度植民地政府の法律と民政回復の任務を持つ1944年4月3日に形成されたオランダ半軍事組織)はカリマンタン連邦に東インドネシア国設立を強く迫る。そして、1946年10月28日西カリマンタン協議会を結成し1947年5月27日ポンティアナックスルタンSultan Hamid Ⅱを首長(少将階級)に擁立し西カリマンタン特別地区になる。
蘭領東印度時代のような自治体を次の地域に形成。サンバス(Sambas)、ポンティアナック(Pontianak)、ムンパワ(Mempawah)、ランダック(Landak)、クブ(Kubu)、タヤン(Tayan)、ムリアウ(Meliau)、スカダウ(Sekadau)、シンタン(Sintang)、スリンバウ(Selimbau)、シンパン(Simpang)、スカダナ(Sukadana)、マタン(Matan) 13王国を形成。
1946年12月7日ダヤック協議会を結成し1947年1月8日にパガタン協議会、プロウラウト協議会、チャントゥン サンパナハン協議会を結成。(後に中部カリマンタン組織になる)その後1947年2月18日パシール協議会と東カリマンタン連盟が結成。同年8月26日最終的に合流して東カリマンタン協議会になる。東カリマンタン地域では クタイスルタン王国のAji Muhamamd Parikesitを首長(大佐階級)に据え東カリマンタン特別地区になる。1948年1月14日バンジャール地域連邦地域に板挟みになり最終的にバンジャール協議会を結成。
ジョグジャカルタのインドネシア共和国命令行政のカリマンタン知事Muhammad Noor卿はNICA勢力相手への独立防衛闘争の任務へCilik Riwut(後のインドネシア国軍初代元帥)とHasan Basry(カリマンタン青年団体軍人)派遣する。1949年5月17日Hasan Basry中佐はALRI(インドネシア共和国海軍)カリマンタン防衛長官としてカリマンタン宣言をする。カリマンタンはインドネシア共和国に不可欠と。軍長官の指令はオランダが設立したバンジャール協議会の結成に対して対抗案努力。
合衆国インドネシア時代、つまりはポンティアナックを首都とした西カリマンタン特別地域、サマリンダを首都とした東カリマンタン連盟、バンジャルマシンを首都としたバンジャル地域、コタバルを首都とした南東カリマンタン連盟とカリマンタンは幾つかの小国の集合状態。1950年8月14日カリマンタン州の再結成しインドネシア連邦共和国解散後の南カリマンタン州設立日として記念して祝う。1956年迄カリマンタンは3つの州(南カリマンタン、東カリマンタン、西カリマンタン)に分けられ1957年 3月 23日正式にダヤック地区名が中部カリマンタン州として形成し、その後1962年、1966年にインドネシアとマレーシアでカリマンタンを巡って対立する。