パロポ

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【発展の始まり】
その昔パロポはLa Galigoの叙事詩の中でで知られているワレ(Ware)の名を持っていた。パロポの名称は1604年ルウ王国がイスラム寺院設立以来と時を同じくして使われ始めたと考えらている。

パロポの名称はブギス・ルウ語から引用。
第1に餅米・赤砂糖・ココナツミルクから作られている菓子からの意味。第2に”Palopo’i”の言葉が起源、突き立てる又は含めるの意味から。”Palopo’i”は最初の古代イスラム寺院建立の時に於いて語られた表現、そして第3に克服・乗り越える意味を持つ

17世紀ルウゥはイスラム教を受入れパロポはルウゥ王国繁栄の為マランケ(Malangke)のアマッサンガン(Amassangan)から首都に選ばれた。その首都変更は王子達の玉座争い兄弟戦争が始まる事を確信されていた。この戦争は”南北戦争”として知られている。和平後、首都は北と南の間に位置された。

町は王宮の前に広がり同様に社会経済の中心として市場が開かれた。ラレッバタ(Larebbata)は当時町の中心地になる。この町はAmassanganとMalimonganの地方を含む円形状で10ヘクタールを有する

パロポはゆっくりと発展し村の集団へ、スルタンガ(Srutanga)の第二レベル迄成長しその領土を展開。領土は18ヘクタールになり社会経済の集中的な居住地区になる。スルタンガ村は殆ど庶民が居住されていると想像されている。海岸と水田地帯に近い環境で当時スルタンガ社会の大部分が漁業、農業に従事していた

当時のパロポの一部であるBenturu居住地区はお堀に似た防衛砦の環境だった。壁の高さは2メートル、幅7メートル、海岸へ沿って5キロ。この砦は日の出の地を意味する「トンポティッカ(Tompotikka)砦」と称される。場所はKompleks Perumahan Beringin Jaya周辺。その当時、この砦地域の中には東西に延びる1500メートルの歩道があった。16世紀にオランダへ抵抗する準備として建設されたと考えられている

【植民地時代】
1888年当時のセレベス長官の記録によると当時パロポには21の集落に507の住居があった。Tappong地区は最も密集しており100軒、次いでPonjalae地区70軒、Amassangan地区が60軒。人口は10.140名、この数字にはリブカン(Libukang)島地区400名の人口は含まない。
村の数は21、この記録から時の都市社会の特徴が示しているという結論

これは Luwu王国領土内の他の地域よりも集中的に住民中心地を建設された事を示されている
トラジャ、ルウゥ北部社会はパロポのルミンダ(Luminda)墓地跡とボティン(Boting)川沿い水田地帯に住み始める

トラジャとルウゥ北部社会の来訪と移民は期待推奨された。彼らにとってルウゥ王国軍事防衛の助けになるとは別にしてパロポは彼ら自身により良い生活の希望を与えられると考えられた

この都市社会の理想は植民地時代に於いて社会資本建設とされた。オランダは1920年パロポを設立始める。植民地政策により王宮前広場に市場とオランダ職員官舎が建設された。木材から作られたダトゥルウゥ王宮は欧州様式建設に改造及び変更された。同様に学校、軍事寮、病院、教会を王宮西側に建設させた。港や倉庫などを東側へ建築させ新たな住居成長を刺激した。多くの海岸沼地は住居に変化、西側の水田地帯も同様に住居機能に変化した

【独立時代】
1946年1月23日インドネシアイスラム軍の反乱結果によりパロポは発展。当時の県知事の発令に復興が活気づく。パロポは南スラウェシ北部の経済中心になり始め、ルウゥ県の首都へ。行政的な町になる。

行政区画 南スラウェシ州 パロポ市
中核都市 パロポ Palopo
空港 パロポ空港 Bandar Udara Lagaligo, Palopo
パロポ空港乗入れ航空会社 JT:ライオン航空
パロポ空港を結ぶ他空港 ◆スラウェシ地区◆
[ マカサール(ウジュンパンダン) JT] 
パロポ空港から主な地域への距離 約 ランテパオ:80km パレパレ:213km
web site https://www.palopokota.go.id/ [パロポ市]
https://sulselprov.go.id/ [南スラウェシ州]
時差 日本より1時間遅い
面積 南スラウェシ州 45,764k㎡(岩手県の3倍くらい)
面積 パロポ市 247.52k㎡(奈良県宇陀市くらい)
人口 南スラウェシ州 885万人(大阪府のくらい)
人口 パロポ市 16.8万人(富山県高岡市くらい)
宗教 パロポ市 イスラム82.27%・プロテスタント15.64%・カトリック1.6%・ヒンドゥー0.27%・仏教0.22%
町のイメージ 外部の動画サイトによる町のイメージ

【パロポ 観光地、史跡、郷土料理、著名人】

【パロポ ジャミ モスク Masjid Jami’ Tua Kota Palopo 】

1604年スマトラ島ミナンカバウ出身のイスラム教指導者Datuk Pattimangにより建設が始められた。主な建物の大きさは縦横11.9m、高さは3,64m壁の厚さは0.94mの石が使われている。屋根は3段に積み重ねた構成、頂点にはルウ哲学としての陶芸水瓶がある。そして全能の神の公正性を表現。メインマストはシデンレン王が伸びる構想の意味を含んだ傘として屋根を支えており、高さは8,5m直径90cm。建築様式は興味深い、中国・ベトナムの芸術要素を融合広さは1.680平方メートル。1951年シンガポールからの輸入タイルを床に使用復元[動画サイトの様子]

【ルマ アダット ランカナエ Rumah adat Langkanae】

この建物はルウ地区及びパロポ社会を学べる歴史的建造物。Datu Luwu王宮の一つであり,今ではLa Galigoの名称を与えられたLUWU王国の博物館として機能している。しばしば、文化アトリエや工房の活動地として使用されている。[動画サイトの様子]

【タナ・トラジャ Tana Toraja】

パロポはマカッサールから国内線を利用した場合のタナトラジャへのゲイトウェイ。タナトラジャはインドネシア秘境の一つ。スラウェシ島のほぼ中央に位置しする屈指の景勝地。現在もトラジャ族が先祖を崇拝する伝統儀式行っている。又、船をモチーフにした屋根を乗せた伝統的な家屋「トンコナン」も特徴的。コーヒーの産地キーコーヒーのブランドでも有名。[動画サイトでの様子]

【カンプルン Kapurung】

パロポ料理・名物の代表的なのは「カプルン」。サゴ椰子のでんぷんを主原料とし、野菜や魚等を炊いた、煮汁スープ。味もお好みで辛い物からそうでもないもの迄。健康食の一つとして人気がある。[動画サイトの様子] 

【ポン ティク Pong Tiku】

(1846-1907年)スラウェシ南部で活動したトラジャのゲリラで指導者。北トラジャ支配者の息子。ティクはBaruppu王国を占め王になる。その後父親の死去後Pangalaも支配。コーヒー貿易を通じてブギス族と同盟を結ぶ。コーヒー戦争(1889-1890年)と称された頃Tondonの町が他の支配者に攻撃されるも同日に反撃、1900年初頭オランダ軍がスラウェシを襲撃してきた時、ティクと軍は要塞からの攻撃を展開する。オランダ側はティクは同地のオランダ統治行政の安定性に脅威とされ1906年10月ティクは捕われ、1907年1月逃亡し6月迄指名手配となり、その後捕われた数日後に死刑執行された。ティクはスラウェシで最も長期にわたる反乱の指導者。2002年ティクはトラジャ反乱のシンボルとして国民的英雄になる。[動画サイトの様子]

【日本とタナトラジャ Jepang dan TanaToraja】

タナトラジャと日本とは繋がりが無いように思えますが先の大東亜戦争時に豪州攻撃から日本軍が追われ、暫し滞在した地である事は余り知られていない。

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