インフォメーション
当社ではタラカン 北カリマンタン州 Tarakan現地に於ける、航空券・ホテル手配・車両チャーターを含んだ地上手配・現地ツアーから視察訪問、表敬訪問、慰霊巡拝、歴史探索等々、あらゆるオリジナル手配を手掛けております。現地スタッフも万全の体制で、そして全力投球でお客様の車両チャーターを含んだ地上手配、ご旅行をサポート致します。まだまだ新しい何かを発見出来るタラカンを是非どうぞ。
「タラカン」(Tarakan)の名称は地元の伝わりによるとオランダが植民地化にする以前のティドゥン語の「Tarak」(出会う)と「Ngakan」(食べる)が融合した言葉。漁師達が休憩して食事をする場所、そして各漁師達が物々交換を行った場所からの由来とされている。
1896年、オランダの石油産業の会社(BPM:Bataavishe Petroleum Maatchapij)が原油(パムシャム油田・チャンコール油田・ジュワタ油田の良質な油田)を発見し、掘削作業が高まる伴ってジャワから大量の労働力を持ち込んだ事でタラカンの町は平穏さを奪われる。1923年、開発が進みオランダ領東印度政府は駐在所を設置し、タンジュンスロール(Tanjung Selor)・タラカン(Taraakn)・マリナウ(Malinau)・アパウ カヤン(Apau Kayan)・ブラウ(Berau)の5つの地域を傘下に治める。インドネシア共和国独立後は大統領命の刷新にてタラカン県の郡長事務所となる。
1981年、政府の規制に従いタラカンを東カリマンタン北部地域の中心の一つとして必要なステータスのレベルアップの町にした。1997年、タラカンは行政自治体にアップグレード。1997/12/5内務大臣によって公式的に同日をタラカンの町の記念日とした。タラカンはバリクパパンに次ぐ東カリマンタン州の第二の玄関にまで成長。そしてインドネシア・マレーシア・フィリピンの交易の窓口でもある。
タラカンは大東亜戦争の歴史観光地であり自然のマングローブの森と保護区の森、ビーチリゾートの開発、独自文化観光とタラカンは豊富な観光地がある。大東亜戦争時には、日本軍の占領後、バリクパパンで生産された石油製品の中継集積センターが建設され、日本本土や日本軍の各前線拠点への補給拠点となった。日本軍守備隊と奪還を目指す連合国軍との間で戦闘が行われた激戦地タランカン。
タラカンの広さは657,33K㎡。陸地面積は250,80K㎡。平均の最低気温は24.8℃で最高気温は31,4℃。湿度85% 降雨量は一月平均b366,36mm。照射は44,84%。タラカン市民の増加、1945年はジャワ人ティオンホア人・ティドゥン人等で5,000名程であったが2006年半ばまでの61年間で約34倍の171,690名に増加している。
ティドゥン族(Suku Tidung):
東カリマンタン北部を居住としたマレーシア・サバ州の住民。かつてティドゥン王国が存在していたが、オランダンの内部分裂工作政治により消滅してしまった。
行政区画 | 北カリマンタン州 タラカン市 |
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中核都市 | タラカン Tarakan |
空港 | タラカン空港 Bandar Udara Internasional Juwata, Tarakan |
タラカン空港乗入れ航空会社 | GA:ガルーダインドネシア航空 SJ:スリウィジャヤ航空 JT:ライオン航空 KD:カルスター ID:バティック航空 |
タラカン空港を結ぶ他空港 | ◆カリマンタン地区◆ [ バリクパパン GA JT SJ ID] [ サマリンダ KD] [タンジュンセロール KD] [ヌヌカン KD] [マリナウ KD] |
タラカン空港から主な地域への距離 約 | タラカン市街:2km KKMB テングザル・マンローブ保護地区:3km ルマブンダール博物館:4km |
web site | http://www.tarakankota.go.id/ [タラカン市] https://kaltaraprov.go.id/ [北カリマンタン州] |
時差 | 日本より1時間遅い |
面積 北カリマンタン州 | 75,467k㎡(北海道よりやや狭い) |
面積 タラカン市 | 250.8k㎡(滋賀県米原市くらい) |
人口 北カリマンタン州 | 69.1万人(静岡県静岡市くらい) |
人口 タラカン市 | 25.3万人(北海道函館市くらい) |
宗教 ブルンガン県 | イスラム80.9%・プロテスタント7.21%・カトリック6.32・仏教4.93%・ヒンドゥー0.56% |
町のイメージ | 外部の動画サイトによる町のイメージ |
【タラカン 観光地、史跡、郷土料理、著名人】
【KKMB テングザル・マングローブ保護地区 Kawasan Konservasi Mangrove dan Bekantan】
KKTBは23ヘクタールを所有し、自然の植物・動物・生態の保護区。中にはマングローブ原生林と野生テングザルの保護をしている。テングザルは既に44匹に達し、その内14匹がこの保護地区で生まれた。マングローブは少なくとも15種。その他、カワウソ、オオトカゲ、31種の野鳥、そして、蟹・海老・魚等の様々な種類の海域生物がいる。町の中心でマングローブとテングザルを保護活動しているのはインドネシア内でもここタラカン島だけ。[動画サイトの様子]
【ルマ ブンダール博物館 Museum Rumah Bundar】
ルマブンダール博物館は1945年、オーストラリア連合軍が日本軍より占領権を奪った後、オーストラリア軍の待機場所として使用されていた。その後、博物館になり日本軍の武器や道具等の大東亜戦争当時の歴史的遺物がある。[動画サイトの様子]
【イナイ市場 Pasar Inai】
タラカン市中部に位置するイナイ市場は伝統的な市場の一つ。イナイ市場ではタラカン市外の商人や農民が様々な物を販売している。但し、月・木曜日しか開かれていない。[動画サイトの様子](動画はイナイ市場でなく、パムシアン市場の様子)
【カパー Kapah】
タラカン島料理・名物は蟹が有名ですが、本編では「カパー」とします。カパー(Kapah)は、タラカンでも伝統的な蛤属の貝の大衆料理。茹でて、サンバルなどお好みソースを付けて食すのが一般的で酒の肴にも持ってこいのカパー[動画サイトの様子]
【日本とタラカン島 Jepang dan Tarakan】
タラカン島の戦いは蘭印作戦の一つ。1942年1月11日。坂口静夫陸軍少将支隊(混成第65歩兵団)と呉第2特別陸戦隊はボルネオ島北部の油田地帯タラカン島に上陸。1944年9月、陸軍第37軍強化加入。タラカン島は蘭印軍1,400名が守備をしていた。降伏後、沿岸砲による砲撃で日本軍の掃海艇2隻が撃沈され、海軍は戦死者156名を出した。オーストラリア発表では1540名とも。[日本人共同墓碑]旧墓地自大正九年,至昭和八年 昭和八年十二月移墓