マラン

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マランは東ジャワ州でバニュワンギに次いで2番目でジャワ島では3番めの広さの土地を有する県。マランは太古より町が存在する。河川が多くある事で住まいに適してようだ。

マラン隣接の町「Dinoyo(ディノヨ)」と「Tlogomas(トゴマス)」は先史時代よりの集落として知られる。8.9世紀に栄えたKanjuruhan(カンジュルハン)王国の終わりの時期と思われる様々な碑文(例:ディノヨ碑文)、合祀建物や彫像、レンガの基礎、かつての排水路の他、様々な陶器の痕跡も発見された。「マラン」の名の由来は今現在もそのルーツは定かでなく、今現在も歴史家はその由来を研究している。

行政区画 東ジャワ州 マラン市
中核都市 マラン Malang
空港 マラン空港 Bandar Udara Abdul Rachman Saleh, Malang
マラン空港乗入れ航空会社 GA:ガルーダインドネシア航空 SJ:スリウィジャヤ航空 JT:ライオン航空 QG:シティリンク航空 ID:バティック航空
マラン空港を結ぶ他空港 ◆ジャワ地区◆
[ ジャカルタ GA SJ] [ ジャカルタハリム QG ID]
◆スラウェシ地区◆
[ マカサール(ウジュンパンダン) JT] 
マラン空港から主な地域への距離 約 マラン市街:13km ブロモ山:30km スラバヤ:98km バニュワンギ:311km スカルノ博物館:88km
web site http://www.malangkota.go.id/ [マラン]
https://www.jatimprov.go.id/ [東ジャワ州]
時差 日本より2時間遅い
面積 東ジャワ州 47,922k㎡(北海道の60%くらい)
面積 マラン市 145k㎡(千葉県山武市くらい)
人口 東ジャワ州 3,969万人(東京都の2.8倍くらい)
人口 マラン市 89.5万人(大阪府堺市の1.08倍くらい)
宗教 マラン市 イスラム93.6%・プロテスタント2.76%・カトリック2.05%・ヒンドゥー0.92%・仏教0.51%
町のイメージ 外部の動画サイトによる町のイメージ

 

【マラン 観光地、史跡、郷土料理、著名人】

【ブロモ山 Gunung Bromo】

聖なる山、ブロモ山。スラバヤから南90km、マラン北東30km、標高は2,329mの複式火山。ご来光を仰ぎに登るツアーが一番人気。ブロモ山の評価はとても高い。交通手段としてはマランの方が近いが日本からのアクセス面ではスラバヤの方が利便が多い。[動画サイトの様子]

【ブン・カルノ(スカルノ)博物館 Museum Bung Karno】

スカルノが幼少期に過ごした家の周辺イスタナ・グバン地区。スカルノが残した遺品や子供の頃から亡くなる迄深く関わった品々を収蔵している。又様々な科学雑誌を収蔵する図書館もある。多くの人がスカルノの肖像画を観にやってくる。この絵が有名になったのは描かれた人間の心臓が脈打っている様に見えると言われた事から。スカルノの墓も同じ町ブリタール(Blitar)にある。埋葬地の選定にはスハルトの画策があるとかないとか、、、[動画サイトの様子]

【ブラウィジャヤ博物館 Musemu Brawijaya】

ブラウィジャヤ博物館はインドネシア国軍ブラウィジャヤ司令官により1962年から設立開始、設立後はマラン市も援助する。1968年に竣工。主に武器、戦車や装甲車等の戦争に関連する品々を展示や過去の戦争に関する歴史も学べる。[動画サイトの様子]

【パンタイ バルカンバン Pantai Balekambang】

ヒンドゥー教の礼拝に用いられる寺院。マランの「タナロット」として知られる。何時から存在するかは不明。景観はバリ島の「タナロット」に負けていないと言われている。特に夕日鑑賞が人気。海の波も比較的穏やかで家族ずれにも人気。[動画サイトの様子]

【Toko Oen】

創業1930年のレストラン。取分けアイスクリームが人気。当時オランダの植民地時代であったが、乗り越え現在に至る迄営業。注文してから持ってくる迄、時間が掛る場合があるようだ。[動画サイトの様子]

【ルスミン ヌルジャディン Roesmin Noerjadin】

インドネシア共和国 空軍提督・軍人(1930/5/31マラン生・1994/10/30死去・享年64歳)。1966/3/31-1969/11/10間、インドネシア空軍大将を努め同時に運輸大臣も兼務。1954年、飛行士空軍士官学校、1955年フライトインストラクタースクールを終了し、1958-1962年飛行隊司令官、空軍参謀長等を歴任。氏の名はリアウ州プカンバルにある空軍基地の名称として残る。

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