インフォメーション
当社ではスンバワブサール Sumbawa Besar現地に於ける、航空券・ホテル手配・車両チャーターを含んだ地上手配・現地ツアーから視察訪問、表敬訪問、慰霊巡拝、歴史探索等々、あらゆるオリジナル手配を手掛けております。現地スタッフも万全の体制で、そして全力投球でお客様の車両チャーターを含んだ地上手配、ご旅行をサポート致します。まだまだ新しい何かを発見出来るスンバワブサールを是非どうぞ。
ヌサトゥンガラ諸島内でも、長期にわたり安定した王宮政治を護った地の一つである。アミニズム主義を信仰したDewa Awan Kuning王朝の終焉からスンバワ王朝が約280年収める。
近年では水牛レース・馬レース等も観光名物となり、旧王家自宅ではその当時の品々を見る事が出来、旧王宮も修復ではあるが、今尚見る事が出来る。近年ではモヨ島(故ダイアナ妃もお忍びで休息された島)へのゲートウェイとしても知られている。又、特産品として蜂蜜の評価がとても高い。
行政区画 | 東ヌサトゥンガラ州 スンバワ県 |
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中核都市 | スンバワ Sembawa besar |
空港 | スンバワ空港 Bandar Udara Sultan Muhammad Kaharuddin III, Sembawa besar |
スンバワブサール空港乗入れ航空会社 | GA:ガルーダインドネシア航空 JT:ライオン航空 8B:トランスヌサ航空 |
スンバワブサール空港を結ぶ他空港 | ◆ジャワ地区◆ [ スラバヤ JT] ◆西ヌサトゥンガラ地区◆ [ デンパサール(バリ) 8B] [ロンボク GA JT] |
スンバワブサール空港から主な地域への距離 約 | スンバワブサール市街:2km バラ・クニン:2km ダラムロカ王宮:3km タノ港:89km ビマ:252km |
web site | http://www.sumbawakab.go.id/ [スンバワ県] http://nttprov.go.id/2018/ [東ヌサトゥンガラ州] |
時差 | 日本より1時間遅い |
面積 東ヌサトゥンガラ州 | 348,718k㎡(北海道の62%くらい) |
面積 スンバワ県 | 6,643k㎡(栃木県よりやや広い) |
人口 東ヌサトゥンガラ州 | 546万人(兵庫県くらい) |
人口 スンバワ県 | 50.9万人(愛媛県松山市くらい) |
宗教 スンバワ県 | 只今編集中。 |
町のイメージ | 外部の動画サイトによる町のイメージ |
【スンバワブサール 観光地、史跡、郷土料理、著名人】
【バラパン クボ Barapan Kebo】
スンバワ県で有名なイベントの一つと言われるのが「水牛レース」(Barapan Kebo)。県中心地スンバワ・ブサール郊外の村で毎年雨季著直前の田植え時期に行われる。いわゆる豊年際。[動画サイトの様子]
【旧王家自宅 Bala Kuning】
スンバワ王国最後の国王邸宅バラ・クニン(黄色い館)。入場料を払えば見学可。大東亜戦争時日本がスンバワ島上陸した際に何かと活躍した居住地。現在でも王家末裔が住んでいる。当時の装飾品、美術品等のコレクションが今も残る。[動画サイトの様子]
【旧王宮 Istana Dalam Loka】
1885年、第15代国王Muhammad Jalaluddin IIIによって建造された。現在は県の迎賓館として運用、日本の文化庁も修復支援している。[動画サイトの様子]
【シンガン Singang】
スンバワ料理・名物と言えばシンガン。バジルの緑やキダチ唐辛子が溶け合う黄色のスープはチョット見はカレーに似ている。味はやや、酸味がある。魚は何でもチョイス出来るが、鱸・鯛系がお勧め。調理はお好みサイズに切り、キダチ唐辛子・ニンニク・赤ワケギ・クケイノキ・ターメリックを匂いが消える迄炒める。酸味を加え唐辛子と水を加えて沸騰させ、魚を加えとろみが付く迄炊く。
【ムハマッド カハルディン Sultan Muhammad Kaharuddin III】
1674年よりスンバワ王朝最後の王。(在位1931-1958)オランダ殖民地時代・日本軍占領時代・インドネシア独立と、激動時代を経験する。
【日本とスンバワ Jepang dan Sembawa】
1943年(昭和18年)5月、本土防衛強化のため新設された幾つかの師団のうち46師団は、5月14日に留守第6師団と独立第66歩兵団を基幹に熊本で編成。1943年10月に南方への転出が命ぜられ、所属の歩兵第123連隊が小スンダ列島スンバワ島に上陸し二ヶ月後には歩兵第147連隊がスンバワ島に上陸。残りの歩兵第145連隊は、輸送船の関係で進出することができず、1944年(昭和19年)6月、硫黄島の小笠原兵団に配属され硫黄島の戦いに参戦し全滅した。師団主力は、1945年(昭和20年)4月、スンバワ島からマレー半島警備に転用されたが、大きな戦闘を交えることもなく終戦を迎えた。