ララントゥカ フローレス島

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ララントゥカ(Larantuka)は、東フローレス県の県都。ナギの地 (Tanah Nagi)とも呼ばれている。ポルトガルの影響を強く受けたカトリックと共に栄えた町であり、復活祭が有名。

オランダとポルトガルがソロール島攻防戦を繰り広げ、1636年にポルトガルは拠点をソロール島よりララントゥカに移し、1661年平和条約が締結しフローレス島東部はポルトガル領となった。1859年リスボン条約により、ポルトガルはフローレス島東部、ソロール島、アドナラ島をオランダへ売却して、パンター島、オロール島の主権も放棄し、ララントゥカを去る。

行政区画 東ヌサトゥンガラ州 東フローレス県
中核都市 ララントゥカ Larantuka
空港 ララントゥカ空港 Bandar Udara Gewayantana, Larantuka
ララントゥカ空港乗入れ航空会社 8B:トランスヌサ航空
ララントゥカ空港を結ぶ他空港 ◆東ヌサトゥンガラ地区◆ [ クパン 8B]
ララントゥカ空港から主な地域への距離 約 ララントゥカ市街:8km マウメレ:142km エンデ:287km
web site http://nttprov.go.id/2018/ [東ヌサトゥンガラ州]
時差 日本より1時間遅い
面積 東ヌサトゥンガラ州 48,718k㎡(北海道の62%くらい)
面積 東フローレス県 3,079k㎡(佐賀県の1.26倍くらい)
人口 東ヌサトゥンガラ州 546万人(兵庫県くらい)
人口 東フローレス県 25.1万人(埼玉県草加市くらい)
宗教 東フローレス県 カトリック81.66%・イスラム17.18%・プロテスタント1.11%・ヒンドゥー0.05%
町のイメージ 外部の動画サイトによる町のイメージ

【ララントゥカ 観光地、史跡、郷土料理、著名人】

【復活祭 Upacara Keagamaan Paskah】

復活祭は、キリスト教の典礼暦における最も重要な祝い日。十字架にかけられて死んだイエス・キリストが三日目に復活したことを記念する。「復活の主日」、あるいは英語で「イースター(Easter)」とも言われる。

【ラマワラン文化村 Budaya Desa Lamawalang】

ラマワラン村の魅力は「ルマアダット」伝統文化的を見る事が出来る。魅力は中でも織物・伝統的な儀式(犠牲儀式)・蒸留アルコール・伝統舞踊だ。村としては1951年に形成されたが、元々山の麓に定住していたが同村に配置され引越した。ララントゥカ市内より車約15分。

【ブンガ プパヤ Bunga Pepaya】

ララントゥカのローカルでの隠れた人気は「ブンガ プパヤ」。その名の通り、パパイヤの花を料理した物。中でも揚げた物が人気だ。インドネシア人も「ちょっと苦いがそれが又美味しい」と言う。[動画サイトの様子] 

【ヘルマン ヨセフ フェルナンデス Herman Joseph Fernandes】

ヘルマン ヨセフ フェルナンデス(1925-1947)、ララントゥカ出身の両親の下、12人兄弟の4番目としてエンデで生まれる。少年時代は大人しいが軽快で意思の強い子供であった。元財務・交通大臣フランス セダ等とオランダ語学校へ進学。日本軍が占領しているジャワ島へ青年団・海防団になる為にジョグジャカルタへ移動。1945年、独立戦争が勃発。インドネシアスラウェシ学生協会へ参加、1947年オランダ軍と対峙、自身の命より、仲間を命がけで助ける勇気ある軍人。闘争は敗走し、のちに捕われ厳しい拷問を受けて亡くなったとされている。

【日本とララントゥカ Jepang dan Larantuka】

フローレス島は日本軍が占拠したインドネシアの島々の中でも多くの日本軍人が上陸した場所の一つである。このララントゥカにも多くの日本人が滞在していた、日本軍防空壕も当時はあり、中には戦争後ララントゥカに残留した日本人もいたという。[写真はマウメレの洞窟をイメージ利用]

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