パダン

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パダンは西スマトラ州一帯に住むミナン人、ミナンカバウ人又は、パダン人と呼ばれる民族が中心となって築いた大きな商業都市。ミナン人はインドネシアでは先を読み計算出来る商業に向いた民族と言われる。

都市部にオランダの東インド会社が植民地支配手先として使っていた中国人が住み、田舎にブリブミ(先住民)が住むという構図が多いインドネシアにあってパダンは華僑に支配される事無くミナン人が商業や流通の多くを動かしている。

1797年、海岸で起きたマグニチュード 8.5-8.7 の地震による、高さ 5-10 メートルとみられる津波によってパダンは徹底的に押し流され、浸水した。地震は多大な損害をもたらし、2人の死者を出した。一方で津波は Air Manis 村の家々を倒壊させ何人もの死者をもたらした。アラウ川に係留された船は、上流へおよそ1キロメートル流された 200 トンの帆船を含めて、陸地に押し流された。

1833年、ブンクル州沖に起こったマグニチュード 8.6-8.9 と見積もられる地震による、高さ 3-4 メートルとみられる津波に再び襲われた。パダンは地震により多大な損害がもたらされ、アラウ川の中で係留していたボートは津波のためにいかりを壊され、あちこちに流された。シンガポール地球観測研究所(EOS)のケリー・シエによると、近い将来パダン沖にMw8.8の海溝型巨大地震に見舞われると警告している。

独立時には人口約5万人の都市であった。コーヒーは未だに重要な産物であり、また内陸部の農場で作られるコプラも主な産物。人口の増加理由は一部の都市領域の成長の結果でもあったが、主には多くの発展途上国で見られる大都市への人口流入の結果であった。

行政区画 西スマトラ州 パダン市
中核都市 パダン Padang
空港 パダン空港 Bandar Udara Internasional Minangkabau
パダン空港乗入れ航空会社 GA:ガルーダインドネシア航空 SJ:スリウィジャヤ航空 JT:ライオン航空 3Y:カルティカ航空 ID:バティック航空
パダン空港を結ぶ他空港

◆スマトラ地区◆
[ バタム JT QG ] [ メダン JT SJ] [パレンバン GA]
◆ジャワ地区◆
[ ジャカルタ GA JT SJ ID] [ ジャカルタハリム 3Y ID] [バンドゥン QG]

◆スラウェシ地区◆

[マカサール(ウジュンパンダン) 3Y]

パダン空港から主な地域への距離 約 パダン市街:28km アディヤワルワン州立博物館:25km ブキティンギ:73km ハッタ生誕の家博物館:73km プカンバル:287km ジャンビ:540km
web site http://www.padang.go.id/ [パダン]
http://sumbarprov.go.id/ [西スマトラ州]
時差 日本より2時間遅い
面積 西スマトラ州 42,297k㎡(岩手県の2.76倍くらい)
面積 パダン市 694k㎡(滋賀県高島市くらい)
人口 スマトラ州 551万人(兵庫県よりやや多い)
人口 パダン市 92.7万人(東京都世田谷区よりやや少ない)
宗教 パダン イスラム97.77%・プロテスタント1.28%・カトリック0.6%・仏教0.25%・ヒンドゥー0.08%
町のイメージ 外部の動画サイトによる町のイメージ

【パダン 観光地、史跡、郷土料理、著名人】

【ムアラ港 Pelabuhan Muara】

パダン郊外ムアラ港はオランダ植民地時代から利用されている港で、今でも多くの歴史的建造物が見られる。いくつかの建物は文化遺産となっており、中でもインド系のコミュニティによって建てられた淡緑色モスクが有名。又、第二の泰緬鉄道と呼ばれた幻のスマトラ横断鉄道の西側への中継地であった。[動画サイトの様子]

【アディティヤワルマン州立博物館 Museum Adityawarman】

アディティヤワルマン州立博物館は2.6ヘクタールの敷地に宝石類・有史以前の人骨・陶磁器・伝統的な道具類が集められている。建物はガジャ・マハラム形式のミナンカバウ人の伝統母屋。大東亜戦争当時の戦闘機の残骸が建物前にある。[動画サイトの様子]

【ブキティンギ Bukittinggi】

パダン市内から北へ90km。標高約900mに位置するブキティンギは涼しく冷たい澄んだ空気が美味しい。「高い丘」を意味するこの小さな町全体が一つの小さな丘になっている。北には動物園やミナンカバウ博物館、南には町のシンボル、ミナンカバウ伝統家屋を模した時計塔Jam Gadangがそびえる。[動画サイトの様子]

【ハッタ生誕の家博物館 Museum Rumah Kelahiran Bung Hatta】

ブキティンギにあるこの家は18690に建造し、1960年代に倒壊。その後再建され、1995年8月12日ハッタの誕生日に博物館となった。家具や品々も元々の位置を出来るだけ近い状態にしてある。床は竹と籐を編んで作られており、母屋・別館・穀倉・台所・馬小屋からなっている。[動画サイトの様子]

【パダン料理 Masakan Padang】

パダンの料理・名物と言えば「そのまんま」パダン料理。今ではパダンの料理というよりインドネシアを代表する料理の一つである。テーブルに着くとドカドカドカっと料理の小皿がテーブル狭しと並べられる、時には写真のように2段になる事も、気に入った物だけを食べるシステム。勿論精算は食べた分だけ、店によっては定食(皿にご飯と幾つかのおかずをトッピング)にして食べさせてくれるところもある。[動画サイトの様子] 

【モハマッド ハッタ Mohammad Hatta】

(1902-1980)パダン郊外ブキティンギ出身。インドネシア共和国初代副大統領(1945-1956年)。初代大統領スカルノと共に民族主義・独立運動において主導的役割を果たす。独立後、スカルノ大統領、ハッタ副大統領の「双頭体制」で国家運営に重要な役割を果した。しかし、スカルノと対照的なハッタは次第にスカルノと対立。
1956年理由を語る事無く副大統領を辞職。両者の協力関係が崩壊。その後ハッタは政界復帰することなく、スカルノの「指導される民主主義」「9月30日事件」後のスカルノの失脚とその死、そしてスハルト体制の中1980年永眠。存命中は政界での汚職や不正に対する批判が高まると学生や知識人の間でハッタの政界復帰を唱える「ハッタ待望論」もあった。謹厳な人柄で、信仰心に篤かった。現在のジャカルタ空港にスカルノと共に名を残す。[動画サイトの様子]

【第二の泰緬鉄道・スマトラ横断鉄道】

日本のスマトラ占領に於ける巨大プロジェクトのスマトラ横断鉄道建設。マラッカ海峡側とインド洋側との物資、兵員輸送を目的としたものだ。プカンバル~ムアロ間220kmを結ぶ。測量開始から僅か2年半の期間で完成させるが皮肉な事に全線完成したのは1945年8月15日、日本が連合軍に無条件降伏した日であった。故に「幻のスマトラ横断鉄道」と呼ばれる。

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