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インドネシア北東部に位置しスラウェシ島とニューギニア島間に散在する大小多数の島々の総称。インドネシア語ではマルク諸島(Maluku)と呼ばれ。古くから香料群島で知られ、ハルマヘラ島、セラム島、アンボン島、テルナテ島、ティドール島等の島を含む。行政では北マルク州とマルク州の2つに纏められ、北マルク州はハルマヘラ島のソフィフィが州都、マルク州はアンボン島のアンボンが州都。面積は74,505平方km。構造はヒマラヤ造山帯と環太平洋造山帯の会合点に当り、地盤変動が激しく大小の島々を生じ、又諸所に火山活動が見られる。気候は高温多湿で密林に覆われた島が多い。
面積 マルク諸島全体 | 241,217k㎡(北海道の3倍くらい) |
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人口 マルク諸島全体 | 295.3万人(茨城県よりやや多い) |
面積 | 209,235k㎡(北海道の2.67倍くらい) |
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人口 | 174.4万人(熊本県くらい) |
州都 | アンボン |
宗教 | イスラム50.61%・プロテスタント41.4%・カトリック6.76%・ヒンドゥー0.37%・仏教0.02%・儒教0.01%・他0.84% |
民族 | マルク73.83%・スラウェシ16.2%・ジャワ5.2%・ブギス1.66%・東ヌサトゥンガラ0.56%・中国0.3%・他2.25% |
言語 | インドネシア・アンボン・アルネ・ブギス・ジャワ・マレーヌアウル・ウェマレ・アラブ・オランダ・ポルトガル・スペイン |
都市 | アンボン・サウムラキ・トゥアール・ドボ・セラム・ブル島・バンダ諸島・タニンバル諸島・ケイ諸島・アル諸島 |
面積 | 31,982k㎡(岩手県の2.1倍くらい) |
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人口 | 120.9万人(広島県広島市よりやや多い) |
州都 | ソフィフィ |
宗教 | イスラム75.34%・プロテスタント23.96%・カトリック0.68%・ヒンドゥー0.01%・仏教0.01% |
民族 | トベロ10.78・ガレラ9.7%・テルナテ9.4%・マキアン8.51%・ティドーレ7.76%・スラ6.98%・ブトン5.67%・ジャワ4.12%・サンギール3.04%・ロロダ2.61%・トバル2.24%・カオ2.15%・ブギス2.01%・パタニ1.84%・バジョ1.73%・中国0.22% |
言語 | インドネシア・マレー・ブギス・ブトン・ゲレラ・ジャワ・サンギール・テルナテ・ティドーレ・トベロ・アラブ・オランダ・ポルトガル・スペイン・他 |
都市 | テルナテ島・モロタイ島・ラブハ・バチャン島・ハルマヘラ島・スラ諸島・オビ島 |
ティドーレ島はテルナテ南スピードボード30分。姿、形がテルナテ島と似ている事から双子島とも呼ばれている。テルナテ島よりはやや、大きい。イスラム教が入る前は火山の島の意味のLimau Duko 又は Kie Dukoの名前で知られていた。ティドーレ島にはポルトガル人が作ったトフル要塞とトワレ要塞の2つの要塞遺跡がある(島の西側)。17世紀頃にオランダの攻撃によって壊滅され、今や崩れ落ちた瓦礫や石の残骸ではあるが、海側からの外観は広く颯爽としている。
マルク諸島マルク州に属するアンボン島。アンボン島はマルクの経済、交通の中心で古くから栄えてきた。2つの半島が僅かな地峡で島同士が繋がっているような形。アンボンは昔からチョウジ・ナツメグ等の香料産地と知られ交易の中心として発展、15世紀にポルトガル人が砦を築き、後の1605年にオランダ人がそれを奪う。ポルトガル支配下時の1546年と1547年には、フランシスコ・ザビエルが訪れ、以来、マルク各地ではカソリックの布教が行われるようになった。
太平洋戦争(大東亜戦争)後期にインドネシア東部モルッカ諸島のモロタイ島で守備する日本軍上陸が上陸したアメリカ軍主力の連合国軍の間で戦いが行われた。アメリカ軍はフィリピン反攻作戦の第一歩として、モロタイ島を占領し飛行場等大規模な基地を建設した。
ハルマヘラ戦線より無事帰還した叔父様の「ハルマヘラの景色が見たい」の要望で御親族の方がハルマヘラ戦地跡を撮影へ。目的地迄の行程は片道3日間を要し、道中悪路で途中バイクをチャーターしての移動や、目的地では宿泊機関が無い為、、地元村長宅にて滞在する等と随分とコアな手配になりましたが、目的が無事完遂出来何よりです。
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当初マルクは1つの州であったが、1999年10月4日にマルク州よりテルナテを首都とした分離設置し「北マルク州」が誕生し2つの州に分けられた。2010年8月4日北マルク州の首都はテルナテからソフィフィへ遷都。
当初北マルクの用語はテルナテ、ティドレ、バチャン、ジャイロロ4つのスルタンの語を基とされた。4王国が特定の連盟形成を行いMoloku Kie Raha又は「4つのマルク山」と称され、後に4王国は北マルク一帯とパプア、スラウェシの一部の領土を拡張するがマルク用語は用いられない。
マルク語の意味は様々な専門家の議論でもあまり明確でなく世論ではマルク用語はアラブ語を原型として使われたと推察されている。この時代アンボン及びバンダ諸島の一部にはマルク用語は入っていない。
北マルク州は395の島から成り立っており64の島には居住者はいるが331の島は無人島である。北マルク諸島は白亜紀よりインド・オーストラリアプレート、ユーラシアプレート、太平洋プレート3つの地殻構想プレートから成り立っておりハルマヘラ島西部、テルナテ島、ティドレ島、モティ島、マレ島、マキアン島の南北に広がっている。ハルマヘラ島は火山島であり、未だ一部で活動している。
マルク民族はフィジー、トンガ、そして太平洋に広がる諸島民族のメラネシア民族による血縁関係である。多くの有力な証拠としてマルクは太平洋諸島民族間と言語、歌、地域、食事、家庭内の装備や器具、楽器等の伝統的な結びつきを持っている所が参照出来る言われる。
彼らは一般に褐色の肌、ウェーブした髪、強く大きな骨格、スポーツマンタイプの身体を持っており主に海で活動をしている海洋諸島民族である為、他のインドネシア民族より立派な体躯を持っている。その昔より、彼らは欧州(主にオランダ・ポルトガル、スペイン)、アラブ等他の民族との混血を持っている。マルクの地は2300年もの間外国人より支配され続いた結果である。
マルクはインドネシアで唯一欧州、アラブの人種、文化が混合するメティーソ部族が存在する地である。名前にもその名残があり現在に至ってもオランダやポルトガルで一般的に使われている名前を持つものが多く、又同様にスペイン、アラブ系の名前を持つ人もいる。現在でもマルク、アンボン等では読み綴りを継承してる者も多い。
現在マルク社会はインドネシアだけの存在でなく世界中に散在している。様々な理由による国を出た原因の一つは1950年代欧州へ大規模な移住。他の理由としてはより豊かな暮らし、学問を究める、他の部族との婚姻を求めて。その後新たなマルクの世代が暮らしている。マルクの国外居住達はオランダ、スリナメ、オーストラリアのような幾つかの国々に集中した大きなコミュニティで会う事が出来る。
インドネシアでの地域に於けるマルクのコミュニティーはメダン、パレンバン、バンドゥン、ジャボデタベック、中部ジャワ、ジョグジャカルタ、東ジャワ、マカッサル、クパン、マナド、東カリマンタン、ソロン、ジャヤプラで見られる。
3世紀、扶南の交易相手として馬五洲と記された。交易品は丁香。中国の文献では元の時代には文老古、明の時代には美洛居などと記された。北部では丁子、中央部ではナツメグを産し香料諸島と呼ばれ大航海時代には到達目標の1つとなった。1512年にポルトガル人が進出、後から来たスペイン人との間に香料貿易の主導権を巡る争いが続いた。
オランダ人は1599年から南部に勢力を張り1623年のアンボイナ事件で英国を排除し全諸島を支配下。オランダは香料貿易を独占すると共に生産量調節の為ホンギ遠征と呼ばれる強硬手段で香料原木の伐採、焼却を行い住民の反感を招く。オランダ東インド会社は1667年にはマカッサル王との間にボンガヤ条約を結びインドネシア東部から全競争勢力を退去。18世紀末以後は香料の産出地が他に増えモルッカ諸島の意義は失われた。
北マルク州は当初、諸島東部最大のイスラム王国が4つ存在した(バチャン王国、ジャイロロ王国、ティドレ王国、テルナテ王国)。
テルナテは太平洋地域日本支配地の中心地となる。
1945~1957年、テルナテは北マルクの役割及び位置は植民地時代の行政区分として低迷を続ける。その後、幾つかの自治体に分けられ1957年9月19日より北マルク州が設置。1956年地方議会では西イリアン返還への闘争支援の為北マルク州設置に動くもこの試みは全闘争事件の出現によりはたと止まる。
1963年Partindo(Partai Indonesia),PSII(Partai Syarikat Islam Indonesia),NU(Nahdlatul Ulama),Partai Katolik,Parkindo(Partai Kristen Indonesia)幾多の政治政党が北マルク州を勝ち取るべく地方議会を促す。地方議会は対応し北マルク州確立決議を産み出す。しかし古い秩序から新しい秩序への行政変更は具体的なフォローアップを得られななかったが先駆者の努力は一つの成果を得た。
新秩序の時代 Moloku Kie Raha地域では2つの県行政と1つの行政町に分けられた。テルナテを首都とした北マルク県、ソアシオ、ティドレ、行政町としてテルナテを首都とした中央ハルマヘラ。3県地域はまだマルク州に含まれている。
ハビビ大統領時代、幾多の可能な地に新たな州行政の設立を早急に行う意向を出す。マルク州は、州を分離設置を早急に行われる必要がある潜在的地域の一つに含まれる。主には北と南及び中央から南東地域間の早急な開発・設置。1999年北マルク州・ブル県・西南東マルク県が設置。その後幾つかの行政自治体が設立され、2003年に北ハルマヘラ県、東ハルマヘラ県、南ハルマヘラ県、スラ諸島県が設置。
マルク諸島最大の島。人口2割キリスト教徒が占める。ハルマヘラ島は山がちのうえ全島を熱帯雨林に覆われる為人口が少ない。この地域の中心はハルマヘラ島の西海岸沖合いに浮かぶテルナテ島、ティドレ島。双方面積100km2あまりの小島、丁子の原産地として香辛料貿易で栄えハルマヘラ島を含めたインドネシア東部全域に勢力を広げた。16世紀初頭ポルトガル人が来て以来モルッカ諸島は西洋諸国による支配権争いの舞台になり最終的にオランダ領東インドに組込れた。
テルナテ島はマルク州に属していたが、1999年に北マルク州が分離成立後テルナテが事実上の州都になった(計画上の州都はハルマヘラ島のSofifi)。島の最高峰は定期的に活動している活火山標高1715mのガマラマ山。1538年記録以来70回以上噴火しており最近は1980年9月に大噴火があり3万人が近くのティドレ島に避難。
オランダ人が19世紀にモルッカ諸島を植民地化する迄テルナテ王国は現在のインドネシア東部の広い範囲を統治。16世紀末スルタン・バブラはスラウェシ島東部からモルッカ諸島全体、小スンダ列島、パプアの一部に迄影響力を持ち、この時期がテルナテ王国最盛期。テルナテ島は丁子の数少ない産地に知られヨーロッパ人が到達する以前から中国やマレーの商人が訪れていた。現在迄49代続くスルタンの家系は13世紀にマレー人によって建国。その後イスラム教が交易ルートに乗ってもたらされると王家や住民の改宗が進む。
初めてテルナテ島を訪れたのはマラッカから来たポルトガル探検家、フランシスコ・セラン(Francisco Serrao)ら。彼らはモルッカ諸島探検航海中にセラム島近くで難破し地元住民に救助された。テルナテのスルタン・Abu Laisは彼らの困窮ぶりに1512年にテルナテ島まで連れて来させた。これを機にスルタンはポルトガル人と同盟、島に砦を作る事を許可。しかしポルトガル人のスルタン廃立への関与や宣教師たちの強引な布教活動等で住民が怒り1575年追放。
スペイン人はポルトガル人に対抗してティドレ島に拠点を置いたが1606年にテルナテ島のポルトガル人が築いた砦を占拠、スルタンを捕まえマニラに移送。オランダ人は1599年モルッカ諸島に進出1607年にはテルナテ島の一部を占領。1663年スペインが撤退する迄テルナテ島はオランダ領とスペイン領に二分。オランダは丁子の生産拠点をアンボン島等管理しやすい島に移し丁子貿易で栄えたテルナテ島はモルッカ諸島の政治経済の中心をアンボンに譲り渡す。
イエズス会フランシスコ・ザビエルは日本を訪れる3年前1546年アンボン島、テルナテ島、モロタイ島を訪れ布教活動をしている。イギリスの博物学者アルフレッド・ラッセル・ウォレス1858年自然選択説を独自に作り上げ、意見を聞こうと論文をチャールズ・ダーウィンに宛てた。ダーウィンは自分の20年来の研究に極似している事に驚き、慌てて自分も論文を書き上げ、ウォレスの論文と同時発表という形に。このダーウィンに宛てた論文はテルナテ島で投函されたことから俗にテルナテ論文と呼ばれている。
人口:2010年の国勢調査では、北マルク州の人口は1,038,087人、成長率は2.47% 人口分布、最も低いのは中央ハルマヘラ県の4.12%、最大は南ハルマヘラ県19.16%。民族:北マルク社会は信仰心が高く28の民族と言語がある。
彼らは大きく分けてオーストロネシアとノンオーストロネシアの2つの集団に分けられる。中央・東ハルマヘラに住んでいるブリ族、マバ族、パンタイ族、サワイ族、ウェダ族等から成立つオーストロネシア民族。ハルマヘラの西、北側はガレラ族、トベロ族、ロロダ族、トバル族、モドレ族、トグティル族、ワイオリ族、イブ族、サフ族、テルナテ族、ティドレ族から成立つノンオーストロネシア民族。スラ諸島にいる幾つかの民族 カダイ族、マンゲ族、シボヨ族。この地の大部分はテルナテ語及びティドレ語を理解するが民族間では一般的にインドネシア語を使用。
宗教:北マルク住民の大部分はイスラム教(72.28%)を信仰、クリスチャン(プロテスタント24.9%・カトリック0.52%)、ヒンドゥー(0.02%)、仏教(0.01%)、儒教(0.01%)、その他(0.24%)
北マルクは美しい島々や海岸観光施設があり様々な種類の観賞魚も楽しめ観光森林もあり同時に世界でも10指に入る固有の生物分類原種が存在する国立公園もある。陸地も海域も数種類から成立つ自然保護地区。バチャン島シベラ山自然保護区、オビ島自然保護区、タリアブ島自然保護区、セホ島自然保護区。考古学的価値の歴史を持つ歴史文化保護地区は北マルク州のテルナテ、ティドレ、西ハルマヘラ県、中央ハルマヘラ県、南ハルマヘラ県、北ハルマヘラ県に広がる。
文化観光:
テルナテ島スルタン王宮:1813年11月24日Sultan Muhamad Ali第40代スルタンがLimau Santosaに設立、広さは44,560平方メートル。この王宮には前足で頭を支え座っている獅子が描かれている。王宮には歴史的価値を持つインドネシア最古の手書きコーラン、王冠、戦争道具等スルタンが所有していた特別な遺物の品々が保存されている。王宮の前の広場は催事・祭礼も使われる。
自然観光:
マイタラ島はテルナテ島とティドレ島の間にある美しい小島で1,000ルピア紙幣にも描かれている。ティドレ島とテルナテ島はハルマヘラ島の西に隣同士に位置しティドレがやや広い。ティドレ島はKie Matubu山に覆われる様に点在している。
マルク又は国際的にはモルッカスと知られるインドネシアの州。マルクの歴史は中東ファラオ主導のエジプト王国の様に大きな王国時代以降始まる。マルクはペルシャ、メソポタミア、エジプトで発見された陶土版にマルクがインドネシアで最古の歴史記録が証明している。
東側の国は非常に豊とされており楽園の地であるマルクは他にないクローブ、金、真珠の天然資源が豊富でありナツメグ、香辛料メース、クローブ、真珠の中心地であった。バンダ諸島ではナツメグと香辛料メース、クローブはアンボン周辺群島地域で得やすく真珠はアル諸島のドボで生産された。
マルクの首都Ambon Maniseとして綽名を持つアンボンはアンボン島南Leitimur半島に位置している。アンボンマニス(Ambon Manise)は増々狭苦しくなり年々急上昇する住民人口の引き受けはもはや適正でなくなりアンボンは普通の町になり首都をセラム島の東マルク県マカリキ町へ遷都する話が出ている。マルクの人口は2010年の調査では1,533,506人。マルクはインドネシア東側部分に位置し西パプア、東スラウェシ、東ティモール、東ヌサトゥンガラに囲まれている。
マルクではイスラム教徒が50.61%、クリスチャン48.4%と主に2つの宗教を崇拝しており世界史の記録の中にイスラムとクリスチャン間の人道的危機悲劇の紛争「アンボンの悲劇」として知られている。2002年以降、アンボンは穏やかで平和な町へ容貌が変化した事で世界は平和の印としてアンボンシティーセンターに世界平和の鐘を設置した。
1999年、マルクを襲った人道的危機の紛争「アンボンの悲劇」時に行政区域が首都をソフィフィに設置し北マルク州に分けられた。しかし、ソフィフィはまだ首都になる整備が整っていない為、2009年迄暫定としてテルナテ島のテルナテ町に置く。インドネシアに広がる諸島郡であるマルク州と北マルク州は大小4000以上の島々からなるマルク諸島として知られる。
言い伝えの一つではマルクはアラブ語から派生説。王の国、島、土地としての意味を持つAl-Mulk, Al-Mulk(コーランの部分表記) から。マルクは現在に至る迄それぞれの小王国が構成している所から正しい説とされている。第二の言い伝えではマルクはテルナテ語の派生説、祖国を意味するMokoku又は、Mokokoから。
マルクが4つの山の祖国を意味するMoloku Kie Raha(その昔全能の神の島とされたGapi島が4つの島に破壊分裂した名称)としてテルナテ族の言葉から反映している。4つの山は大きな4つの王国である北マルクのテルナテ王国、ティドーレ王国、バチャン王国、ジャイロロ王国を意図された。
マルク州で使用されている言語は交易語として知られる東マレーシア語族の一つであるアンボン語。マルクで使用されている言語はかつて来訪した探検家の言語だけでなく更には過去マルクの地を支配植民地によるもの、特にアンボンに於いては外国の言語が多少影響を受けた。(スペイン、ポルトガル、アラブ、オランダ)。
マルクに於けるアンボン語はマルク州地区ほぼ全住民に共通語と理解された。同様に東インドネシア社会に理解されたのはテルナテ、マナド、クパン等。何故なら、アンボン語は北スラウェシ、北マルク、パプア、西パプア、東ヌサトゥンガラでの言語の交易言語が非常に類似した構文を有している為だ。
インドネシア語はインドネシア共和国に於ける統一の言語として一般的に公式に日々の生活や仕事に使用されている。マルク諸島は全インドネシア内でも最大の諸島郡でありマルク州・北マルク州を編成している。互いの島の間が離れている為マルク内では多岐にわたる言語が増々使用される結果に。
マルクにて使われている一般的な言語と地域は下記。
ウェマル語(Bahasa Wemale):セラム島西部のPiru,Seruawan,Kamarian,Rumberu,
アルネ語(Bahasa Alune):セラム県西地区Tala,Mala,Malewa
ヌアウル語(Bahasa Nuaulu):エルパプティ湾とトゥルティ湾間の南セラム島のヌアウル民族使う言語
アティアウ語(Bahasa Atiahu):セラム島東部のAtiahu,Werinama,Batuasa。ヌアウル語族を含む
コア語(Bahasa Koa):セラム島中部山岳地区Manusela,Gunung Kabauhari
セティ語(Bahasa Seti):セティ民族が使用する東部セラムの言葉、Seram Utara,Teluti Timur
ゴロム語(Bahasa Gorom):南東マルクから東部セラム居住する民族
タランガン語(Bahasa Tarangan):南東マルク、ドボ県アル島住民使用する統一語
Palamata,Moksela,Hukuminaの3言語はほぼ消滅。これら数百の言語はアンボン語が共通語になった使用言語による統一された。諸外国(アラブ、中国、ポルトガル、オランダ、イギリス)がマルクに足を踏み入れる以前、マルクでの言語は最も西側の太平洋にて少なくとも数千年から使用されている。
マルク住民は主な3つの宗教を信仰している。イスラム教約50.61%、プロテスタント約41.40%、カトリック約6.76%。イスラム教はサパルア島のイハスルタン、南セラムのサウラウ王国、アンボンのヒトゥ王国そしてアラブからの貿易商によって普及させた。
クリスチャンはポルトガル、スペイン、オランダが普及した。2013年現在のマルクに於けるモスクや教会の記録はイスラム寺院約2,000箇所、教会約2,345箇所、ヒンドゥー寺院約10、僧院約5とされる。通常GPM(Gereja Protestan Maluku)として知られているマルクプロテスタント教会は、マルク最大の教会会議及び集会組織である。
マルクのマクロ経済活動状況は年々向上の傾向である。指標の一つである例として地域の国内総生産評価が上昇している。2003年に於いてマルク州地域国内総生産は3.7兆ルピアに達し、2004年には4.05兆ルピアに上昇した。2005年に於ける経済成長は5.06%上昇となる。
ビジネス投資戦略的から見た時マルク州の地理的条件は海洋及び漁業部門での天然資源はマルクに於けるビジネスは良好であり他の農業、畜産業、農園業の様な部門や商業、観光産業も充分に高い評価を得ている。マルクに於ける森林資源の広さは54,185km2を持ち各区分は次の通り、転換林:475.433 Ha・保護林:774.618 Ha・限定生産林:865.947 Ha・一定生産林:908.702 Ha・変換可能の森林:1.633.646 Ha
マルクでの鉱山とミネラル生産地は次の通り。
金:ブル島、ウェタール、アンボン、ハルク、ロマン島
水銀:ダマール島
銀:ロマン島
金属:ハルク島、ヌサラウッ
石英:ブル島
石油:セラム島、バンダ海、アル諸島、 南西マルク
マンガン:バンダ海
マルクは海洋水産省により国立魚類貯蔵地として定められた。海洋諸島最大であるマルクは国が漁業貯蔵として適正である所以は、とても多くの豊かな海は人の手から護られており漁業の可能性を秘めた地域である為。1.バンダ諸島・2.ケイ諸島・3.アル諸島・西東南マルク・南西マルク
658.294,69km2の海洋資源は次の通り。バンダ海277.890トン/年・アラフラ海771.294トン/年・セラム海590.640トン/年。マルクでで捕獲出来る魚の種類の例としては鯵、鰯、鰹等の大小の表層魚、底魚、サンゴ礁の魚、エビ、ロブスター、イカ等。
海洋養殖普及拡大潜在性はセラム、マニパ、ケイ諸島、アル諸島、ヤムデラ、ウェタル及び最南端の島々の鯛系、羽太系、海藻類、真珠貝、海鼠、ロブスター、貝類に見受ける事が出来る。汽水での潜在性としては鱸系、ブラックタイガーである。
マルクは主に太平洋プレート、インドプレートからオーストラリアプレート、ユーラシアプレートの衝突による影響を受け、様々な種類の鉱山とエネルギーになる。インドネシア最大の備蓄ガスは マルク西南東マセラ島地区に記録されている。
マルクには自然、観光、景観と様々な魅力が溢れている。マルクは諸島、火山、海底火山、丘陵地帯、自然景観、湾、湖、そしておもてなしの心を特徴とした魅力を持っている。太古の時代よりマルクは香辛料だけでなく自然の魅力が豊かな地であり数百を数える諸島を形成し各島は独特なパノラマを持っており多くの外国人観光客を受け入れている。自然観光の他には幾多の植民地時代の遺跡や独特な魅力が今に至る迄残っており幾つかの観光地域は外国人にも良く知られている。
ティガ島、マヌセラビーチ、バンダ島等の様な美しい景観はまだ手を触れられていない所が多い。ビーチ:南東マルク、トゥアルにあるビーチはとても広く砂は柔らかく粉のように細かく日中は光の反射が眩しく目が保護出来ない程の白さ。アンボン・ナテセパビーチ:アンボン島南東湾に位置する白砂ビーチ。景観を楽しみながらココナツアイスとフルーツサラダも楽しめ週末には家族旅行等にも人気の地
Benteng Duurstede, Saparuaサパルア島1676年ポルトガル設立要塞
Benteng Amsterdam, Ambonアンボン島1637年ポルトガル設立要塞
Benteng Victoria, Ambonアンボン島1775年ポルトガル設立要塞
Banda Neira, Bandaバンダネイラ島19世紀に至る迄良質な香料で世界から注目
Benteng Belgica, Bandaバンダネイラ島16世紀ポルトガル設立要塞
Pantai Hunimua, Ambon (Pantai Liang)アンボン・フ二ムラビーチ(又はリアンビーチ):アンボン島最東端の全長約4kmある白砂ビーチ。近隣のローカルストランではマルク風焼き魚等を楽しめる。隣接のフェリー湾は大東亜戦争時の元日本軍飛行場。このビーチの向かい側には無人島で環礁の島ポンボ島が保護区としてある
2008年中旬、アンボンはサイバーシティーとして定められアンボン市庁が実施するアンボンサイバーシティーのプロジェクト業務はインターネットアクセスの利便を提供する為に、同年12月末に完了した。
このプロジェクトの実施は社会にとってアクセスが簡素且つ安価に使用を与える事を目的としたもの。パソコン、コンピュータだけでなく設備はワイヤレスによりアンボンの様々な街中で簡素にインターネットを楽しめる。アンボン市庁はTelkomselの協力を得て全アンボン地域に接続を可能にした。アンボンはインドネシアで最初のサイバーシティーとなる。
有名な楽器がTifaとTotobuang、それぞれ異なる機能を持つ楽器で互いをサポートし、とても独特な音色を出す。この音楽はTifaによる圧倒的な音質である。Tifaは次の内容から成り立っている、Tifa Jekir, Tifa Dasar, Tifa Potong, Tifa Jekir Potong dan Tifa Bas。マルクの文化はウクレレ・ハワイアンの様な弦楽器が見られる。この楽器はKatrejiの様にマルク伝統舞踊時に見る事が出来、ハワイアン音楽に似ている。
他の音楽はSawatである。Sawatは中部ティムールとマルクの文化からの融合楽器。マルクにイスラム教を広める為アラブ民族が来た後、音楽を含んで混合された。楽器以外にもマルク人の歌は定評でありその昔より彼らは伝統舞踊伴奏の中で歌っている。この諸島ではBroery Pesulima, Melky Goeslaw, Masnait Group, dan Yopie Latul.等の有名な歌手が誕生している。
マルクの有名な伝統舞踊はマルク人のを逞しく描くCakalele舞踊。この舞踊は山刀と盾を持った成人男性達が演ずる。他にはSaureka Reka。フィリピン等で有名なバンブーダンスに似ているダンスで前後左右にあり、且つ複数で踊る。元来は収穫祭の踊り。
Katrejiダンス:若い男女が社交ダンスの様に踊る。欧州文化から影響を受けた農家発祥のダンス。動きの号令には未だポルトガル語やオランダ語が使われており欧州楽器の伴奏でリズミカル。Katrejiの他、欧州の影響を受けたPolonaise。主に結婚式等で老若男女が軽やかに踊るダンス。
その他、Tarian Bambu Gila。スリ村発祥で魔力的な性質をもつ特殊なダンス。若者数人が竹を抱える様に持ちあたかも竹から負荷を掛けられ制御不能なる所作の踊り。
マルクは長きに渡り外国人により約2300年の間支配さてきた。圧倒的支配は次々に連続しアラブ、ポルトガル、スペイン、オランダ、そして大東亜戦争時において連合国と日本間での激しい戦闘地となる歴史を持つ。
ローマ帝国時代よりオランダの住民達は中国等のアジア諸国と香料貿易を行う。ムスリム商人達の交易支配によりイスラム教が入る。アラブの商人達はイスラム教だけを持ち込んだのではなくスルタン王国を構築し裕福な人間による地域支配を行う事で外来人にとっての効果的に変換していった。
1200-1500年ヴェネツィアがその後イスラム教徒の商人との貿易を通じ香料貿易独占する為に来る。地中海の港湾都市アレクサンドリアの様な支配構図を作るもその後貿易ルートはモンゴルとトルコによって妨げられ専売交易は後に欧州の搾取時代に移るポルトガルが貿易に重要な安全確保へアフリカ大陸南端に航路を取り始めるが誤って航路探索中にブラジルの海岸を見つける。
結果ポルトガルは独占地域の形成し海洋権力を手にする。欧州で評価の高い香料は大きな所得を得る事でオランダとイギリスは直ぐに地域に於ける独占獲得への紛争へ関与する。この香料争奪戦でバンダ諸島に於いて6000人以上の人々が倒れ、殉教死。そしてその後、この諸島争奪はオランダの手中に入る。
人としての最古は約32000年であると発見されている考古学証拠がある。オーストラリアでの古い居住者存在証拠よりマルクはそれ以前に訪問者がいた事を示す事が出来る。長距離貿易関係がますます広がり頻度が他の諸島に対しても高くなる。幾つかの島で紀元前200年頃にインドで通貨として使われていた宝石や銀が発見されている。
マルクは当時発展し、同地に定住するアラブ人、中国人を含めた香料商人達のコスモポリタンになる。マルクは多くのメラネシア遊牧民の居住地域となる。セラム島の先史時代洞窟には未だ解明されていない多くの化石が見る事が出来る。
ポルトガルの文化影響や組織化したアジア商人とマルクを含む東インドネシアに於けるキリスト教布教が障害となる。16世紀初頭マラカを下したポルトガルの影響はマルク及びインドネシア東部にて脅威となり、その後1511年8月マルクに於いてAfonso de Albuquerque(ポルトガルの植民地征服者)はバンダ諸島及び他の香料の島々への航路を得て遠征隊を派遣。
1512年、遠征隊の一人Francisco Serraoが帰還中アンボンの北ヒトゥ漂着し軍事力の高さを持つ地元支配者と締結関係を作る。ポルトガルはテルナテ王国とティドーレ王国間紛争を巻込む。
テルナテと帯同後Francisco Serraoは要塞を建設し、香料貿易を掌握するスルタンより支援を受けポルトガル兵士の傭兵長となるがムスリムであるテルナテ支配者とはキリスト教布教において緊迫する。ポルトガルは香料諸島の探索隊へ情報提供を迫るも二人のスルタンは他界。1535年、ポルトガルは22代Tabarijiテルナテ王を廃位流刑しTabarijiはキリスト教を信奉し、名前もDom Manuelと改称する。
1545年、流罪を終え再び玉座へ戻る帰還中に死亡する。その後、ポルトガルによるHairunスルタン殺害事件が発生、5年間包囲後の1575年ポルトガルを追い払う。テルナテから駆逐されたポルトガルは1513年、初めてアンボンに上陸し数日後にはマルクでの活動拠点を設置。当時の欧州勢力はそれ程強くは無かった。
テルナテは反ポルトガルのイスラム王国として増々勢力を広げる。アンボンに於いてポルトガルは既に貿易、宗教の協力関係を結んでいる北部Hituムスリム住民から抵抗を受ける。ポルトガルは地元香料貿易掌握を成功した事が無く、バンダ諸島でのナツメグ生産権威設立の画策失敗。
スペインはその後テルナテとティドーレを掌握。1546-1547年宣教師及びフランシスコザビエルがアンボン、テルナテ、モロタイを基盤に布教活動を行う。彼の来訪で1万人がカトリック洗礼を受け、1590年頃のアンボン島では最大数6万人となる。がしかし、幾つかの地域周辺では依然としてムスリム地域。
宣教師はインドネシア東部にて多数のクリスチャンコミュニティーを得た後、欧州との利害権益に貢献する。取分けアンボン人との間で。他の影響としては19世紀初頭迄マレー語と並んでポルトガル語由来のインドネシア語が共通言語であった。現在のインドネシア語のpesta,sabun,bendera,meja,等はポルトガル語からの由来である。マルクの於ける多くの人々も同様にポルトガル語が起源とされている名前が多い。
1599年、オランダ人が到着時はポルトガルが貿易を独占していた。アンボン人がHituの地に於いて要塞を設立する中でオランダを援助した後、ポルトガルはアンボン人への抵抗運動を起こす。1605年Frederik Houtmanがアンボンの初代オランダ知事に就任。VOC(東印度会社オランダの貿易商社)はポルトガル、地元住民、イギリスが要因により進出が滞る。密輸は欧州独占への唯一の方法である。
17世紀バンダはイギリスと自由貿易を行う。オランダ事業はバンダから先住民を他島へ送り人口を減らし、労働施設を設立。送られた先住民はバンダ諸島定住へ戻されたものの、他のマルク地区での定住は外国人が掌握下にあり困難であった。更にはポルトガルはマカサールに貿易本拠を設置した後の1636.1646年に地元住民暴動が起こった。テルナテとアンボンの居住管理はマルク東印度会社掌握傘下行政になる。
1941年12月7日大東亜戦争が勃発。インドネシアに於いては植民地歴史の中で新たな時代を迎えた。モロタイ島とミソオル島を経由し日本軍がマルク諸島に進軍し短時間で全マルク諸島掌握。日本軍とオーストラリア軍はタウィリ村で戦闘日本軍は難なくインドネシアの諸島を奪い取る。インドネシア独立宣言の2日後、マルクはインドネシアの州に一つとして表明される。しかし、当時のマルク州の設置と地位は日本が敗戦後、オランダがマルクの植民地政策の復帰を妨げる為の緊急措置だった。