当社ではパプアの様々なオリジナル旅行・ツアーお手配をご案内しております。日本発着のパプアへの国際線航空券をはじめ、インドネシア国内線航空券、車両チャーターを含めた現地ツアー手配。西はワイゲオ島から東はメラウケ迄全パプア地域をご案内致しております。
パプア及び周辺辺境地の戦没者慰霊巡拝もご案内が可能です。日本人スタッフを含む現地スタッフも万全の体制で、全力投球でお客様の車両チャーターを含めたご旅行をサポート致します。まだまだ新しい何かを発見出来るインドネシア・パプアを是非体感して下さい。
元はインドネシアが1949年に独立してからオランダとイリアンジャヤの領有権を主張しあうという紛争が始まり。後1960年にインドネシアとオランダは国交断絶を宣言し武力による解決を示す一方で国連に提訴し1969年に国連による提案で住民投票を行いインドネシアへの帰属が決定した。その後、イリアンジャヤの独立運動が活発化し2000年に西パプア住民大会が新国家パプアの樹立を宣言しインドネシアを揺るがす問題に発展。2006年には独立運動家がオーストラリアに亡命しオーストラリア政府がビザを発行したためインドネシア・オーストラリアの関係悪化にもつながった。
面積 パプア | 419,5081k㎡(日本総面積の1.11倍くらい) |
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人口 パプア | 417.5万人 (静岡県の1.15倍くらい) |
面積 | 102.955k㎡(北海道の1.3倍くらい) |
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人口 | 91.5万人(和歌山県よりやや少ない) |
州都 | マノクワリ |
宗教 | プロテスタント60.05%・イスラム31.21%・カトリック8.36%・仏教0.09%・ヒンドゥー0.08% |
民族 | パプア51.48%・ジャワ14.77%・マルク10.4%・スラウェシ7.97%・ブギス5.31%・マカッサル2.26・東ヌサトゥンガラ1.98%・ミナハサ1.79・バタック0.95%・中国0.32%・他2.7% |
言語 | インドネシア・英語・地方言語 |
都市 | カイマナ・ソロン・ファクファク・マノクワリ・ワイゲオ島 |
面積 | 316.553k㎡(北海道の4倍くらい) |
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人口 | 326万人(静岡県よりやや少ない) |
州都 | ジャヤプラ |
宗教 | プロテスタント65.48%・カトリック17.67%・イスラム15.89%・ヒンドゥー0.09%・仏教0.04%・他0.83% |
民族 | パプア76.3%・ジャワ8.38%・スラウェシ3.67%・ブギス3.19%・マルク2.88%・マカッサル1.48%・ミナハサ0.77%・バタック0.58%・他2.18% |
言語 | インドネシア・英語・その他268地方言語 |
都市 | ジャヤプラ・ティミカ・ドゥカイ・ナビレ・ビアク・メラウケ・ワメナ・サルミ・アガツ・ヤペン島 |
有志方々によるビアク島(パプア)地区日本軍戦没者慰霊地巡拝手配を実施。日本軍が上陸したボスニック海岸・多くの犠牲者を出した西洞窟・東洞窟・日本軍が血と汗を流して作ったモクメル飛行場を訪ね戦没者の参拝を行ないました。慰霊碑では中の石碑迄参拝する事が出来ました。写真はこの慰霊碑を守ってくれている管理人。
ジャヤプラにて無念の最期を迎えられた故人様のお子様・お孫様による法要を手配致しました。御親族様永年の想いを無事達成出来、本当に良かったです。無事ご帰国後お話を伺い目頭が熱くなりました。本件が徳島新聞より取材を受けたとの報告も頂きました。こちらが新聞記事です。
バリエム渓谷の発見は偶然によるものだった。アメリカ自然博物館の遠征チームが1938年6月23日、飛行機の窓から広い緑の谷を見た時に外の世界と隔離された同地を発見。1954年4月20日アメリカ合衆国から宣教師がダニ族へキリスト教を伝道する事を主な目的でハリエム渓谷に到着。宣教師らはヒティガシにステーションを設立し、7ヶ月で滑走路を作る。その後宣教師らは航空機の着陸として使用するのに理想的である領域を発見。
大館南ロータリークラブ代表の方々(代表:日本遺族会常務理事・秋田県遺族連合会会長 仲沢誠也様)が、慰霊碑巡拝と共に、地元小学校へ机、椅子等を寄贈に際したお手配を行いました。子供達も学校、村も大変喜ばれたそうです。とても心温まる手配でした。この模様が新聞に掲載されました。
只今編集中です。
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ジャヤプラはパプア島中北部にあるパプア州の州都。面積は東京台東区程の9.4k㎡、人口は出雲市程の17万人。かつてホーランジア (Hollandia) と呼称され、太平洋戦争の激戦地。当時、ここは旧日本軍の拠点で一時は陸海軍計約14,000人の兵士がいた。
1944年4月22日、南西太平洋方面連合軍司令官ダグラス・マッカーサー大将率いる連合軍が上陸。激戦の末、日本軍は敗走。ホーランジアの失陥は絶対国防圏の一角が崩れたことを意味していた。マッカーサーはここをフィリピン攻略の足がかりとした。
奥深いジャングルと万年之を頂く5,000m級の山々に囲まれたワメナ盆地(バリエム渓谷)の人々の存在は、その自然条件の厳しさが、他民族の侵入を拒み続け、1938年にはじめてアメリカ人の探検家アーチボルトが飛行機で発見するまでは外部には知られていなかった。
最近では多くのスラウェシ島やジャワ島からの入植者によって近代化が図られ、元々の住人ダニ人、ヤリ人、ラニ人の生活も徐々に文明の波が押し寄せているのは確か。それでもなお彼らの中に昔ながらの石器時代的な生活習慣が占める部分は大きい。
コテカと呼ばれるペニスケースを唯一の服装とする男性と、草で編んだ腰ミノ姿の女性の横を、ジープやバイクが走り抜けていくといった「原始」と「近代」が交錯する奇妙な場面にしばしば遭遇する。人口は茨城県潮来市程の3万人
センタニやジャヤプラなどの海沿いの開けた地域では入域許可証は不要だが、ワメナ等の内陸へは前もって所得しておく事が必要。また、あらかじめ入域許可証のコピーをとっておいて各村に入る際に警察に渡すシステムになっている。イリアン・ジャヤには独立を希望する勢力がいる為、外国人の立ち入りを禁じられている地域もある。