ジャワ島

当社ではジャワ島の様々な車両チャーターを含めたオリジナル旅行・ツアーお手配をご案内しております。日本発着のジャワ島への国際線航空券をはじめ、インドネシア国内線航空券、車両チャーターを含めた現地ツアー手配。西はバンテンから東はバニュワンギ迄全ジャワ地域旅行をご案内致しております。

ジャワ島及び周辺辺境地の戦没者慰霊巡拝もご案内が可能です。日本人スタッフを含む現地スタッフも万全の体制で、全力投球でお客様の車両チャーターを含めたご旅行をサポート致します。まだまだ新しい何かを発見出来るインドネシア・ジャワ島を是非体感して下さい。

ジャワ島の広さは世界第13位、インドネシア国内では5位。島民の数では世界一を誇る1億6千万人であり人インドネシア人口の60%に達する。1905年に行った国勢調査では全インドネシア人口の80.6%がジャワに居住しておりこの比較数字は年々落ちているという。インドネシアの首都はジャワ島北西に位置するジャカルタ。ジャワ島は比較的若い島で大部分が火山性活動の形態である。ジャワ島は西ジャワ州、中部ジャワ州、東ジャワ州、バンテン州とジャカルタ、ジョグジャカルタの2つの特別州計6つの州行政区画で構成されている。

面積 ジャワ島128,297k㎡(北海道の1.64倍 世界13位の島)
人口 ジャワ島16,029万人(日本人口の1.26倍)

ジャワ島の州

ジャカルタ首都特別州

面積661k㎡(東京23区よりやや広い)
人口1,085万人(東京都の80%くらい) ジャカルタ首都圏では2,800万人
州都ジャカルタ
宗教イスラム80.3%・プロテスタント8.62%・カトリック4.04%・仏教3.84%・ヒンドゥー0.21%
民族ジャワ35.16%・ブタウィ27.65%・スンダ15.27%・中国5.53%・バタック3.61%・ミナン3.18%・マレー1.62%・ブギス,アチェ,マドゥラ他7.98%
言語インドネシア・バタウィ・マレー・ジャワ・プチャック・スンダ・バンジャール・ミナンカバウ・バタック・マドゥラ・英語・中国・アラブ・タミル・オランダ・ポルトガル
都市ジャカルタ・ジャカルタハリム

西ジャワ州

面積35,222k㎡(岩手県の2.3倍くらい)
人口5,034万人 (東京都の3.6倍くらい 全関東人口の1.18倍)
州都バンドゥン
宗教イスラム95.68%・カトリック5.67%・プロテスタント2.93%・仏教1.94%・ヒンドゥー0.79%・儒教0.2%
民族スンダ61.36%・ジャワ11.34%・ブタワイ5.29%・中国0.5%・チレボン3.6%・バタック0.92%・ミナンカバウ0.47%・マレー0.37%・バンテン0.12%・ニアス0.01%
言語インドネシア・スンダ・ブタウィ・チレボン
都市バンドゥン・チレボン

バンテン州

面積966.2k㎡(青森県よりやや広い)
人口1,244万人 (神奈川県の1.35倍くらい)
州都セラン
宗教イスラム94.62%・プロテスタント2.65%・仏教1.30%・カトリック1.29%・ヒンドゥー0.1%・他0.04%
民族バンテン40.65%・スンダ22.59%・ジャワ15.58%・ブタウィ12.84%・中国1.72%・バタック1.3%・ミナンカバウ09%・他4.42%
言語インドネシア・バドゥイ・ブタウィ・ジャワ・マレー・プラナカン・スンダ・ハッカ
都市セラン

中部ジャワ州

面積32,548k㎡(岩手県の2.13倍くらい)
人口3,557万人(東京都の2.55倍くらい)
州都スマラン
宗教イスラム96.28%・プロテスタント1.91%・カトリック1.42%・ヒンドゥー0.2%・仏教0.18%・他0.01%
民族ジャワ97.86%・スンダ1.4%・中国0.43%・バタック0.07%
言語インドネシア・ジャワ・プラナカン・スンダ・アラブ・ハッカ・ティオチウ・中国
都市スマラン・ソロ(スラカルタ)

ジョグジャカルタ特別州

面積3,186k㎡(東京都の1.45倍くらい)
人口315.5万人(茨城県の1.1倍くらい)
州都ジョグジャカルタ市
宗教イスラム90.1%・カトリック6.7%・プロテスタント3%・ヒンドゥー0.15%・仏教0.1%
民族ジャワ96.53%・スンダ0.69%・マレー0.45%・中国0.33%・バタック0.29%・マドゥラ0.15%・ミナンカバウ0.15%・他1.89%
言語インドネシア・ジャワ・マレー
都市ジョグジャカルタ

東ジャワ州

面積47,922k㎡(北海道の60%くらい)
人口3,969万人(東京都の2.8倍くらい)
州都スラバヤ
宗教イスラム94.35%・プロテスタント3.02%・カトリック1.17%・ヒンドゥー0.93%・仏教0.49%
民族ジャワ79.75%・マドゥラ17.2%・オシン0.79%・中国0.65%・バウェアン0.16%・バタック0159%・他1.18%
言語インドネシア・ジャワ・バリ・マドゥラ・オシン・プラナカン・テンゲール・アラブ・中国
都市スラバヤ・バニュワンギ・マラン

ジャワ島及び周辺の主な都市

ジョグジャカルタ Jogjakarta

ジャワ島 ジョグジャカルタ Jogjakarta

インドネシアの古都として独自の文化を残す著名な観光地。クラトンと呼ばれる王宮には今もスラタンが住んでおり一般公開されている。ガムラン音楽や影絵芝居(ワヤンクリッ)や、タマンサリ(水の宮殿)、ジャワ更紗工房、銀細工等も有名。中部ジャワ州のボロブドゥール寺院遺跡群、プランバナン寺院群の2ヶ所の世界遺産は、ジョグジャカルタ市からのアクセスが一般的、プランバナン寺院群近くの野外劇場ではラーマヤナ舞踊が行われる。伝統産業としてはジャワ更紗が名高い。

ソロ、スラカルタ Solo,Surakarta

ジャワ島 ソロ、スラカルタ Solo,Surakarta

ソロ(スラカルタ)はマタラム王国の首都、カルタスラの東約10km人里離れた静かな村だった。1745年、王国は解体されソロ川の畔に位置するスラカルタへ移動。義理の弟ハメンクブワナⅠとの継承戦争により領地を半分失い、各王宮が設立した事により「マタラム王国」は消滅してします。古き良きジャワの伝統文化が残るソロ(スラカルタ)を訪れる価値は大きい。ジョグジャカルタより約60kmに位置しておりジョグジャカルタ滞在での日帰りも可能。

スラバヤ Surabaya

ジャワ島 スラバヤ Surabaya

インドネシア第2の都市、東ジャワ州の州都。ジャワ島北岸のマス川河口に位置する。人口300万人。15-16世紀ににかけてイスラム教のスルタン国が存在しジャワ島東部の政治的、軍事的拠点。紛争後、1625年に当時強大であったマタラム王国の支配下となり、これによりマタラム国はバンテン王国の支配地とオランダ領バタヴィアを除いたジャワ島の殆ど全てを支配下に治める。商業港として発展したが大東亜戦争中の1942年、日本軍に占拠され1944年連合国軍の爆撃を受けた。1945年日本の降伏後、10月25日に上陸した英軍第49旅団とインドネシア独立派の間で戦闘が発生、これがインドネシア独立戦争の発端。その後インドネシア独立派が占拠したが、1947年オランダ軍に再占領され1949年にようやくインドネシア共和国に編入された。

スマラン Semarang

ジャワ島 スマラン Semarang

中部ジャワの北海岸に位置する港湾都市。その昔は諸外国との貿易が盛でその影響が強く残っている。かつてのオランダ植民地時代の建物が多く残っており、中国・アラブ民族もスマランを郷里と言い続けている。スマランウマス港は17世紀から1945年迄オランダ占領時の活動拠点。旧市街は港に近くコタ・ラマとして知られており植民地時代の建物、教会、多くの中国の宗教的建物、かつての城壁都市がそのまま残っている。植民地時代オランダ人はドーム型の教会を建て、スラマラン市民からはGereja Blendukと親しまれている。トゥグ記念碑(青年の塔)はスマランの象徴1945年,日本人とインドネシア人のスマラン事件(5日間戦争)を追悼するもの。この碑をスマランの魂とも呼ばれる。

ジャワ島 インフォメーション

インドネシアの歴史の多くがこのジャワ島が舞台であった。昔、ジャワ島は数々の王国(ヒンドゥー、仏教、イスラム)や蘭領東印度植民地政府の中心地でありインドネシア独立運動の中心地であった。

ジャワ島はインドネシアの経済、政治、社会事業に対する大きな影響をもたらす。住民の大部分が3つの主要語を話す。ジャワ語が母語のインドネシア住民はおよそ1億人その多くがジャワ島に住んでおり大部分のジャワ島民はジャワ語とインドネシア語を使える。ジャワ語、インドネシア語の他に使われるのがスンダ語又はバタウィ語。ジャワ島人口の大部分がムスリムとクリスチャンだが他の宗教、宗派も存在する。

首都・ジャカルタ

インドネシアの首都、同国最大都市。面積は糸魚川市程の740.28k㎡・人口は神奈川県より多い999万人。ジャカルタ首都特別州を成す。旧称バタヴィア (Batavia)。ジャワ島北西岸、チリウン川河口に位置。北部に外港タンジョンプリオク (Tanjung Priok) を持つ。

海岸に近い商業街とそれから離れた新市街に分かれる。商業都市としては重要であるが、工業は繊維工業・造船業などが行われているものの小規模である。もとスンダ・クラパ (Sunda Kelapa) と呼ばれた小集落から発展した港町であったが、1619年以降オランダの東インド会社の基地として発展、ジャカルタからバタヴィアと改称された。

第2次世界大戦では日本が占領、1942年に日本軍政当局により再びジャカルタと改称され、独立後は都市機能が肥大化、地方・島嶼部の人口が大量に流入してアジアでもトップクラスの規模を持つ都市となった。しかし他の発展途上国の首都同様、住宅など社会施設が整わず、深刻な都市問題を抱える。東南アジア諸国連合 (ASEAN) の事務局を抱える。

ジャカルタの名称の起源は、ジャヤ(幸福繁栄の意)+カルタ(都)の二つの単語からなる合成語とされる(異説有り)。植物・食物の「ジャガイモ」の名前は、この町から日本に伝来したことから生まれた。

ジャカルタ首都の下に5つの市 (kota) と、リゾートとして知られる島嶼部 Kepulauan Seribu(千の島)がある。中央ジャカルタ市・東ジャカルタ市・北ジャカルタ市・南ジャカルタ市・西ジャカルタ市・俗に知られる地区としてコタ地区 - 北部の旧バタヴィア部分ブロックM (Blok M) - ショッピングエリア・ジャラン・ジャクサ (Jalan Jaksa)

世界遺産

ウジュン・クロン国立公園・サンギラン初期人類遺跡・プランバナン寺院群・ボロブドゥール寺院遺跡群。

ボロブドゥール遺跡 borobudur

インドネシアのジャワ島東部にある大規模な仏教遺跡、安山岩や凝灰岩を用いて建造されている。大乗仏教を奉じていたシャイレーンドラ朝で、ダルマトゥンガ王の治世の780年頃から建造が開始、792年頃一応の完成をみたが、サマラトゥンガ王(位812年~832年)のときに増築している。

最も下の基壇は、115m四方で、五つの方形の基壇の上に三つの円形の基壇が載る階段ピラミッド状の構造となっている。五つの方形の基壇の縁は壁になっていて、露天の回廊がめぐらされ、四面の中央には階段が設けられて最上部の円形の基壇まで昇れるようになっている。

方形基壇の回廊には、1460面に及ぶレリーフがあり、仏像は、回廊の壁龕に432体、三段の円形基壇の上に築かれた釣鐘状で空洞の仏塔(ストゥーパ)72基の内部に一体づつ納められ計504体がある。中心には釈迦の遺骨を納めたといわれる大きな仏塔がある。高さはもともと42mあったが現在は破損して33.5mになっている。ボロブドゥールはそれ自体がひとつの巨大な曼荼羅であり、一説によると須弥山を模したものとも考えられている。

20世紀後半に日本の協力により復元修理された。2006年5月27日に起こったジャワ島の大地震で寺院の石塔の一部が崩れるなどの大打撃を受け学者群が調査の後、修復を予定している。

地理

島の形状は棒状で、西北西から東南東に東西1040 km にわたって延び、南北300 km にわたるが、島の幅自体は最も広いところでも200 km にとどまる。最西端はカンクアン岬、最東端はバニュワンギ。スンダ海峡を挟んで北西のスマトラ島、バリ海峡をはさんで東のバリ島と向きあう。

ユーラシアプレートにオーストラリアプレート(インド・オーストラリアプレート)がもぐりこむプレート境界に位置する為、南250 km の位置にはスンダ海溝が形成されており地震多発地帯であり火山も多く主な火山は西からスラメット山 (3428 m)、ムラピ山 (2911 m)、スメル山 (3676 m)、ラウン山 (3332 m)である。

ジャワ島は世界で13番目(126.700km2)の大きさを誇り西にスマトラ島、東にバリ島、北にカリマンタン島、南にナタル島と隣接している。ジャワ島の北はジャワ海、西はスンダ海峡、南はインド洋、東にバリ海峡とマドゥラ海峡に囲まれている。ジャワ島最長河川は600kmの距離を誇るブンガワンソロはジャワ島中部のラウ山を始点として北方へ流れ、東のスラバヤ近郊のジャワ海に到達。

ジャワ島地域全体の殆どが火山活動の影響を受けており、東西に広がる38の山全てが活火山。ジャワ島の最高峰Semeru山は3.676mと、富士山より100m低い。最も活動している活火山はMerapi山2.968mとKelud山1.731mである。これはジャワ島内に限らずインドネシア内でも最も活動している山であるとされる。山や高知は内陸部と互いに遠く離れて距離があり比較的孤立している幾つかの地域に分割されており湿地の水田に適している。ジャワ島は世界でも最も豊穣な稲水田の一つであり、インドネシアでコーヒー栽培した最初の地でもある(1699年)。

現在、大きい農場から小さな農家によってイジェンの高知にてアラビカコーヒーを多く栽培されている。年を通して平均気温は22-29度、平均湿度は75%。北海岸地域はより暑く乾季の日中平均気温が34度、南海岸地域は北よりは涼しく内陸の高知では更に涼しい。雨季は10-4月、降雨は概ね夕刻で他の月は余り多くない。最も降雨量が多いのは1.2月。西ジャワ島の降雨量は東ジャワ島より高く、山岳地帯は更に高い西ジャワ・パラヤンガンの高知の降雨量は1年で4000mmに達する。それに対して東ジャワの北海岸地区は900mm。

地質

1949年、オランダの地質学者van Bemmelenがジャワ島は比較的若い第三紀時代始まりの形成地質として描写・説明・完備を明らかにした。それ以前ジャワ島の形成した地殻は海底に所在し漸新世と中新世時の地球地殻新旧交替変動活動が海底を持ち上げ鮮新世と更新世時にジャワ島が現れた。ジャワ島南部大カストロ地域に新機能の形成海底に残りが未だ見える。 Van Bemmelenは7つの地形単位に分けた。

  1. 南の山岳地帯は中新世時からの火山活動の残りと混じり合う石灰石の区域
  2. 第四紀から東西に広がる海抜2000mに達する高い火山帯
  3. ジャワ島はバンドゥン盆地とソロ盆地の2つ主な盆地の軸を形成
  4. 中央背斜地区、中新世から更新世からの堆積物から成り立つ。
    西ジャワ島カラン山から始まりボゴール、中部ジャワのスラユ渓谷、通過し北海岸ブスキへ続く石灰山岳地帯
  5. 中部ジャワ島北部ランドゥブラトゥン小盆地は陸地と海の堆積物から形成
  6. レンバンからマドゥラの横断層圧縮による隆起した頂点、東ジャワ島の北海岸とほぼマドゥラ全島を形成
  7. 三角地帯と泥の堆積物から形成している北部海岸の最も若い陸地である

語源

ジャワ名称の初めはサンスクリット語の書簡から辿る事が出来る。大麦又は穀物を意味するyavaと、島を意味するdvipaとでyavadvipの名前で呼称した。この穀物はアワイタリカ(猫じゃらし)又は稲であり、両方ともインドの影響が入る前にジャワ島で見つかっている。一方でジャワ島はJauh(遥か)の意味をもつjauの語から起源を含む多くの名を持っていた可能性がある。Yavadvipaはラーマヤナインドの叙事詩の中に記載されている。

Sugriwa(ラーマヤナ叙事詩の中に登場する主人公の一人) はSri Rama王宮(インド伝説の王)からYavadvip(ジャワ島)へDewi Shinta(Sri Ramaの妻)を探しに使節派遣されたとしている。その後、タミル文学の文献に基づくとサンスクリットの言葉でy?yaka dv?paで呼ばれる。他の想像ではJawaの語は「家」を意味するプロトオーストロネシア語を語根とした起源ともされる(ポリネシアで使われているハワイの語に似ている)

文字・言語

Hanacaraka(オノチョロコ)が伝統ジャワ語を表記する文字として知られる。ジャワ語はインドから来たShaka族のAji Saka王により創られたと伝わる。今でもSaka語はジャワ語の中の用語としてある。

ジャワ島で話される3つの主な言語はジャワ語、スンダ語、マドゥラ語。他の言語はジャカルタで使われるマレー語方言バタウィ語、オシン語、ジャワ語と密接な関係にあるテンゲール語、スンダ語と密接な関係にあるバドゥイ語、マドゥラ語と密接な関係にあるカングアン語、バリ語、バニュマサン語。大部分の人々はインドネシア語を一般的な共通語として話す。

人種と文化

ジャワ島と火山の神話起源はTangtu Panggelaran(ジャワ島の神話起源が記されている本)で詳述。インドネシアの他の主要な島々と比較して大規模人口を持っておりジャワ島民族構成は比較的均質。ジャワ島での主な民族はジャワ人とスンダ人。

第三の民族は18世紀頃に移民してきたマドゥラ人。ジャワ島の人口は2/3がジャワ人、スンダ人20%、マドゥラ人10%。ジャワ島の主な文化は4つの地域に分類、ジャワ島中部の中央ジャワ文化(Kejawen)・ジャワ島北部海岸の海岸文化・ジャワ島西部のスンダ文化・ジャワ島東部オシン文化。マドゥラ文化は時に第5の文化と考えられジャワ島北部海岸文化と密接な関係。Kejawen(ジャワ的精神修養道)は最も支配的なジャワ文化として考えられている。ジャワ島に残っているジャワ貴族も支配的な民族集団でありジャワ島で行われている言語、芸術、マナーは最も丁寧であり社会の模範と考えられている。インドネシアで最も豊穣な農地及び人口が稠密しているのは東側のバニュマスから西側のブリタールに至る迄。

ジャワ島は東南アジアに影響力のある多くの王国が設立している。何故ならジャワ作家達の様々な文学作品が存在する。東ジャワに栄えたトゥマペル王国(後のシンガサリ王国)の創始者Ken Arokと皇后のKen Arok物語の一つで孤児が王となり女王と結婚する物語。その他にラーマヤナとマハーバラタの物語もある。Pramoedya Ananta Toer インドネシアを代表する現代作家、インドネシアは成長する時代、自身の経験に基づき国民の物語とジャワの歴史伝統の多くの要素を取り入れた文章を執筆。

宗教と信仰

ジャワ島は様々な宗教と文化が融合した島でヒンドゥー教・仏教のインド文化の影響はジャワ社会の伝統文化や風習に一体化し深く入り込んだ。王室の階級者や宮殿の文学者達はジャワの王達の権力を承認。且つ、政治的構成をヒンズー教の宇宙論と関連付け後に大多数の人々がイスラム教になるのだがヒンドゥー教徒も一部に散在しておりバリ島に近い東海岸のバニュワンギの町周辺ではヒンドゥー教が存在する。

一方現在の一般的な仏教のコミュニティはインドネシア華僑が主な大都市で存在している。1369年、東ジャワに於いてアラブ文字でなく古代ジャワ文字が細かく刻まれているムスリム墓石が発見された。フランスのインドネシア専門科学者で歴史家のDamaisはとても高貴なジャワ人の墓である結論し、更には貴族たちの可能性を示唆。インドネシアの歴史・時事問題学者M.C.Ricklesfsは、スーフィズム(イスラム教神秘主義哲学)は目に見えない力を持つと考えられ古くから神秘的な側面として親しまれてきたヒンドゥー教と仏教からジャワ王宮高官達の仲介により改宗していったと意見を持つ。

東ジャワのグレシックで1419年に没したMaulana Malik Ibrahim(イスラム指導者)名義のムスリム墓石が見つかった。ジャワの伝統を伝えるのはジャワ人でなく外国人で、ジャワ島で初めてイスラム教を布教した一つとして考えられているが証拠となる記述は残っていない。

今ではスンダ、バタウィ、バンテン、チレボンがほぼ100%及びジャワ島の約95%がイスラム教を信仰しておりジャワのムスリムはイスラム教義に厳格でない者と敬虔なイスラム教信者に分けられた。ジャワのイスラム塾でのイスラム老師達はヒンドゥー教時代にはヒンドゥー賢人の役割をも継続する指導を行った。カトリック教がインドネシに来たのはポルトガルが香辛料貿易での来訪時1896年、カトリック教はオランダの指導者Frans van Lith来訪し中部ジャワのムンティランの地に於いて広がり始める。

プロテスタントがインドネシアに来たのは16世紀、東印度会社(VOC)植民地時代から。東印度会社(VOC)はカトリック教を広げる事を禁止しインドネシアに於いてプロテスタント教徒数を高める政策を行う。大都市にキリスト教の所在。中部ジャワ南部の幾つかの地区の農村住民はカトリックを信仰する。1956年、ジョグジャカルタの宗教省にジャワ島にはインドネシアが公式宗教に含まない63の信仰流派が報告されている。その内の35を所在する中部ジャワ、西ジャワには22、東ジャワには6。

歴史概要

ジャワ島は大スンダ諸島でありスンダ地層はアジア大陸南東先端の氷が溶ける前の時代、ソロ川縁に沿った場所で名称「ジャワ原人」ホモエレクトゥスの化石の残りが発見された。その化石は1700万年前の昔の物、サンギラン遺跡は先史時代のジャワ島で重要な遺跡地。幾つもの巨石構文がジャワ島で発見。

例えば立石、供え物用の石の机、Punden Berundakと呼ばれる既に一般的である段々になっているピラミッド。中部ジャワ州のパグヤンガン市、西ジャワ州のチソロックで巨石遺跡Punden berundakと立石が発見された。

そして西ジャワ州でGunung Padanが発見された。中部ジャワのチパリ市で発見された同様の巨石遺跡はモノリス、石のパティオ、そして石棺の構造を示している。Punden berundakは地域住民がインドからヒンドゥー・仏教文明の影響を受けた後、国の基の構造として考えられておりヒンドゥ・仏教王国時代に於ける寺院の基本設計デザイン。西ジャワ北部の海岸地域では紀元前4世紀から1世紀又は5世紀の民族と地域の特別な歴史の中の期を指すBuni文化、粘りのある土地の土器文化が発展した。

この文化歴史祖はタルマネガラ王国(ジャワ島西部ボゴール周辺で5世紀初頭頃に栄えたヒンドゥー王国。タルマ国、タールマ国の呼称もある)の前任者。ジャワ島はとても肥沃で降雨量が高く、その湿った用地で稲作栽培を可能にする。より複雑化する村間の協力水準を設ける推進となるその村の連盟から小さな王国が発展した。ジャワ島に沿って広がる火山性山岳地帯及び高知によりジャワ島社会は外部影響から比較的離されていた。

イスラム王国や欧州植民地主義が到来発展以前の時代に於いて社会の主な運輸施設が川だったがジャワ島の大方の川は流域が短くブランタス川とソロ河だけが遠距離運輸施設になりその川と渓谷に王国が形成された。ジャワ島17世紀半ばでは道路や橋のインフラ整備や税金を徴収するシステムが導入されている。権力を持つ地域の支配者達はそのルートに於いて激しい雨季に旅程妨げを受けるも道路の使用へはとても依存していた。ジャワ島住民間の運輸はその時代は困難と言われていた。

ヒンドゥー・仏教時代

西ジャワにタルマネガラ王国とスンダ王国(10-16世紀にジャワ島西部に栄えた王国)が現れる。東ジャワには8世紀に最初の主要な帝国Medang王国(マタラム王国)が設立。マタラム王国はDewa Siwaを崇めるヒンドゥー教を信仰しジャワ島のディエン高原にある寺院を始め幾多の寺院を設立する。

8世紀のKedo平野(中部ジャワ南周辺)で栄えたSailemdra王朝(スリウィジャヤ帝国傘下)は大乗仏教を信仰。9世紀彼ら王国は中部ジャワのボロブドゥールやプランバナン等の様々な寺院を建立。10世紀頃、権力の中心がジャワ島の中央から東へずれる。東地域では稲作農業に頼ったクディリ王国(11-14世紀に繁栄したヒンドゥー教を崇める王国)、シンガサリ王国(クディリ王国を倒し設立した東ジャワを拠点にした王国)、マジャパヒト王国(13-15世紀ジャワ島中東部を拠点に栄えたインドネシア最後のヒンドゥー王国)が設立。同様にインドネシア諸島間や中国、インドとの交易も発展。

マジャパヒト王国創始者はRaden Wijaya。そして頂点に達した権力はHayam Wuruk(マジャパヒト代4王)政権時代に。王国はインドネシア全諸島の所有権を主張するもののジャワ島、バリ島、マドゥラ島に於いての掌握に限界。マジャパヒト王国時代臣下で戦争軍師のガジャマダにとって領域征服は王国の大きな夢。ジャワ島の王国は以前は農業権力に基づいていたがマジャパヒトは港と航路を掌握し、ジャワ島で初めて商業的な王国となる。マジャパヒト王国はHayam Wurukの死去にて、しばしば後退する。そしてインドネシアにイスラム教が入り始める。

イスラム王国時代

16世紀終わり、ジャワ島ではイスラム教はヒンドゥー教及び仏教を超える支配的宗教となる。先ず初めにジャワ島支配者達へ伝道を通じて行われた。当時、デマック、チレボン、バンテンに権力構築。ジャワ島東部・中部にマタラムスルタンが生まれの支配的勢力になりスラバヤとチレボンの支配者達はマタラムの支配下屈服させられた。その後17世紀オランダ来訪時に残っていたのはマララムとバンテン。

植民地時代

1522年ジャワ島と欧州植民地勢力はマラッカに於いてスンダ王国とポルトガル間にて条約交渉を始めるも、その条約が失敗しポルトガルの活動はマラッカ及び周辺諸国の島々に限られた。1596年オランダの探検家で欧州からインドネシア航路を発見し香辛料貿易を開始したCornelis de Houtman配下遠征隊によりオランダ・インドネシア間の関係が始まる。

18世紀の終わりオランダはジャワ島のスルタン王国へ影響拡張に成功。ジャワ人は勇敢な闘士だがオランダに抵抗中に効果的な同盟を形成。マタラム王国はスラカルタ王国とジョグジャカルタ王国として生き残る。ジャワの王達は神の意思について権限を有すると主張する。オランダはジャワ貴族階級を地域の植民地支配行政的範囲としての支配者の地位支援する。

当初植民地時代ジャワ島は米生産地として主な役割を担う。香辛料の生産地の島々のバンダ諸島等は規則的にジャワ島から生活に必要な米を取り寄せている。1811年イギリスがジャワ島を征服後ジャワ島はその後、将軍Sir Stamford Raffles率いる大英帝国の一部分に。1814年パリ条約の規定にてイギリスはジャワ島をオランダへ戻す。1815年時点でジャワ島の人口は1000万人に達したと言われている。

18世紀後半、ジャワ島中部の北海岸地域に人口が急増し始め、19世紀では全ジャワ島で急激な人口成長する。様々な要因はあるが大規模な人口増加原因の一つはジャワ島での内戦が終わりを迎えオランダの植民地行政により水田地帯を拡張し米を購入する余裕がない人へキャッサバやトウモロコシの様な他の食用作物を導入し食料安全保障をサポートした事や強制農作業の広がりがエスカレートする税負担により税金を納め生計を立てる為より一層の家族労働力が増える事を望み、より多くの子供を得る努力が原因となる1820年、ジャワ島でコレラ疫病が起こり10万人が被害に遭う。

トラックと汽車が出現し水牛車だけを使用していた時代の社会にとって画期的であった、そしてより規則的な植民政策の流通システムへ。これはジャワ島での人口上昇に対し餓えを無くす支援でもある。ジャワ島では1840年代より日本が上陸する迄の1940年代迄飢饉被害を引起していない。他に19世紀では結婚年齢の低下、子供の世話が出来る女性の増加が原因とされる。

独立後

20世紀にはジャワ島でインドネシアのナショナリズムが成長し始め第二次大戦が終わった後のインドネシア独立を護る為の闘争をした。反共産主義の大部分は1965-66年ジャワ島で「9月30日事件」と呼ばれる事件が引き起こった。1998年、華僑系にふりかかる流血大暴動が引き起こり32年続いたスハルト政権が幕を閉じる。

2006年、メラピ山噴火や地震がジョグジャカルタを襲い、一時鳥インフルエンザの影響も受ける。シドアルジョでは土石流の被害を受けた。現在のジャワ島はインドネシアの経済、政治、社会を支配しており、社会差異等による嫉妬社会が吹きだす可能性があると言われる。

経済・生計

当初、ジャワの経済活動はタルマヌガラ王国、マタラム王国、マジャパヒト王国の様にジャワ古代の王達は稲作と税収入に強く依存していた。ジャワ島は古来より米輸出として知られ市民の成長に対して貢献。インドや中国などの他のアジア諸国との交易は既に4世紀から始まっていた事は当時の中国陶磁器で立証されている。

ジャワ島もマジャパヒト時代から東印度会社(VOC)時代にマルク香料交易に関与。17世紀バタヴィアにて中央行政が交易会社を設立し、その後18世紀に東印度会社(VOC)行政が展開する。植民地時代オランダはサトウキビ、コーヒー、ゴム、お茶、マラリアの薬キリーネ等の様々な商業的作物繁殖を伝授する。19-20世紀、ジャワコーヒーはグローバル知名度が上がるどころか「ジャワ」の名はコーヒーと同義語となった。

ジャワ島は東印度(VOC)時代から現代にかけてインドネシアで最も発展した島になった。19世紀初頭、オランダの政治家Herman Willem Daendelsにより、西の町アニュールから東ジャワの町パナルカン迄のジャワ島北部およそ1,000kmに「Jalan Raya Pos Jawa」(休憩所やポスト等を設置した道路)を建設し、太古からの交通経路を強化した。港へ向かう内陸部に於ける農園からの商業的商品の輸送ニーズによりジャワ島では汽車の流通展開も拍車がかかった。

今やジャワ島のジャカルタ、スラバヤ、スマラン、バンドゥン等の主たる大都市に於いて工業、産業、ビジネス、商業が発展している。一方で、ジョグジャカルタ、スラカルタ、チレボン等は文化遺産宮殿の町になり、芸術と観光の中心地となる。ジャワ島北部の海岸の町々には工業地帯が展開、とりわけチレボン、タンゲラン、ブカシ、カラワン、グレシック、シボアルジョ周辺。スハルト政権時代に高速道路が建設拡張されジャカルタ、バンドゥン、チレボン、スマラン、スラバヤ等の主たる町へ結びつけた。高速道路以外に16の国道を整備。

インドネシアの島々