インフォメーション
当社ではクパン ティモール島 Kupan現地に於ける、航空券・ホテル手配・車両チャーターを含んだ地上手配・現地ツアーから視察訪問、表敬訪問、慰霊巡拝、歴史探索等々、あらゆるオリジナル手配を手掛けております。現地スタッフも万全の体制で、そして全力投球でお客様の車両チャーターを含んだ地上手配、ご旅行をサポート致します。まだまだ新しい何かを発見出来るクパンを是非どうぞ。
クパンは1511年マラッカがポルトガルの手に落ちて以来1550年代迄ポルトガル商人達が日常的に立寄所となる。1640年代当時のクパンの王(Raja Helong)と良い協力関係を結び教会の許可及び設置も認める。1653年クパンはオランダに占拠さ、東印度会社政府の商業・貿易の基地となる。
1653-1756年オランダは奴隷制度を利用。その後も支配者オランダは強制的に労働力を集める。1799年東印度会社解散。全権・義務をオランダ政府が掌握。日本が西部インドネシアの攻撃により大東亜戦争が勃発、クパンを占拠し、1942/2/24オランドを撃破。1945/9/11終戦後日本軍は武装解除し権力交代。
行政区画 | 東ヌサトゥンガラ州 クパン市 州都 |
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中核都市 | クパン Kupan |
空港 | クパン空港 Bandar Udara EI Tari, Kupan |
クパン空港乗入れ航空会社 | GA:ガルーダインドネシア航空 SJ:スリウィジャヤ航空 JT:ライオン航空 KD:カルスター航空 8B:トランスヌサ航空 IN:ナムエアー航空 QG:シティリンク航空 |
クパン空港を結ぶ他空港 |
◆ジャワ地区◆ ◆東ヌサトゥンガラ地区◆ [ アタンブア JT] [アロール 8B] [エンデ GA JT 8B] [タンボラカ GA JT] [バジャワ JT 8B] [マウメレ JT 8B] [ラブハンバジョ GA] [ララントゥカ JT 8B] [ルトゥン 8B] [レウォレバ 8B] [ワインガプ JT 8B] |
クパン空港から主な地域への距離 約 | クパン市街:9km アタンブア:273km |
web site | http://kupangkota.go.id/ [クパン] http://nttprov.go.id/2018/ [東ヌサトゥンガラ州] |
時差 | 日本より1時間遅い |
面積 東ヌサトゥンガラ州 | 48,718k㎡(北海道の62%くらい) |
面積 クパン県 | 5,431k㎡(愛媛県」よりやや狭い) |
面積 クパン市 | 180k㎡(茨城県桜川市くらい) |
人口 東ヌサトゥンガラ州 | 546万人(兵庫県くらい) |
人口 クパン県 | 37.2万人(愛知県豊橋市くらい) |
人口 クパン市 | 11.9万人(宮崎県延岡市くらい) |
宗教 クパン市 | プロテスタント71.32%・カトリック17.05%・イスラム10.09%・ヒンドゥー1.53%・仏教0.01% |
町のイメージ | 外部の動画サイトによる町のイメージ |
【クパン 観光地、史跡、郷土料理、著名人】
【東ヌサトゥンガラ州立博物館 UPTD Museum Nusa Tenggara Timor】
東ヌサトゥンガラ州立博物館は東ヌサトゥンガラ州に住む様々なエスニックグループに由来するものであり、考古学・生物学・地質学・地理学・民族学歴史その他6,000点を有する。考古学的コレクションであるマンガライ県ルトゥン郡で発見された「ホモ・フローレシエンシス」の頭骨レプリカは訪れる人々を魅了し続けている。更にティモール島を訪れたヨーロッパの古い船の模型も展示されている。
【ウタン チャンプロン Hutan Camplong】
ファトゥルウ山麓に位置しており、涼しく景観の良いスポット。自然の水浴場があり天然の泉・天然プール、松・オウギ椰子・ユーカリそして猿・鳥類・リス・クスクス等多様な動物が保護生息されている。この森には週末になるとクパンの人々が多く訪れ賑わっている。クパン中心より46km。[動画サイトの様子]
【ダギン セイ Daging Sei】
クパンの名物料理は「ダギンセイ」。インドネシア風肉の燻製。起源はロテ島だが、広まったのはクパンなので今やクパンの名物。名前の「Sei」はロテ語。今やロテ内の各食堂では自慢料理の一つとなっている。店により牛肉・豚肉と素材や代々伝わっている調理方法は異なり中には魚の「Sei」もある。クパンへ訪れる他州のインドネシア人もこのダギンセイは人気である。[動画サイトの様子]
【ベニャミン ヨセフ ブリア Benyamin Yosef Bria】
1956年8月7日クパン生まれ、2007年9月18日シンガポールにて死去。インドネシアのカトリック司教。1985年6月29日ローマカトリック指導者として任命される。2000年よりバリ島のデンパサールに本拠を構え活動。腎臓疾患の為シンガポールの病院において志半ばでこの世を去る。享年51歳
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【日本とクパン Jepang dan Kupang】
日本軍はチモール島に東方支隊による上陸作戦が行われた。チモール島西部のクパンに歩兵第228連隊第1、第3大隊基幹の部隊が上陸、更に横三特の空挺部隊が降下。連合軍の守備兵力は1,940名(オーストラリア軍1,500名、蘭印軍240名、現地軍200名)。日本軍は3方向からの包囲攻撃を企図したが、連合軍はクパンを放棄して退却しようとした。退路を塞いでいた日本軍の右翼隊200名は連合軍の脱出を阻止したが半数が死傷。日本軍は追撃し連合軍は降伏。連合軍の遺棄死体は296、捕虜1,136名。東方支隊の損害は戦死67名、戦傷56名であった。